今年の、春のはじまりの日は
いつも通り店に立つ、なんでもない日

午前の早いうちから
母を誘って、馴染みの喫茶店へ出かけた
スコーンとフルーツサンドのセットをぺろりと食べて、
気合いを入れ直し、元気に仕事へ

お隣のお菓子屋さんが、
お誕生日おめでとうございますー!と声をかけてくれる
その言葉と、7年目の仕事場に落ちるあたたかい日差しが
すこしだけ特別だった


友人たちからは、メッセージやメール、カードや小包が届いた
毎年同じことを言っている気がするけれど、
世界のあちこちにいる人たちが
3月1日にわたしのことを思い出してくれる、というのは
けっしてあたりまえのことではない

不義理をはたらいてばかりのわたしだけれど、
いつだって好きな人たちの幸せを願っている
わたしにとって、誕生日は、
連絡をくれた、大切な人たちのことを思う日

 

年齢なんてただの数字、と言えど
やっぱり、たくさんのことを考える
この先も、こうしてやっていけるんだろうか、とか
平たく言えばそういうこと

店にしても、キラキラした古いものたちに夢をのせて、
いま美しいものを地道に作っている人たちを支えて
誰かに楽しんでもらいたいと思うほどに
わたしの言葉は、ほんとうに届いているのか、と不安になる
辛い知らせが続き、経営もしっかり考えなくてはいけないときだから
気持ちとやるべきことが乖離していて、よけいに心もとない


だけど、店に来ることを大事に思っていると話してくれる人たちが
たしかにいるということを忘れずに、
これからも知識の網の目を、できるかぎり細かくしていけたらいい
結局、原点に戻るのだ

わたしにしかできないことなんて、
突き詰めれば、きっとないのだろうけれど
それでも

 

 

アイスランドの音楽チャートを見ていたら
上位に、Natasha BedingfieldのUnwrittenがあった
20年前の曲なのにどうして、と不思議だけれど
先月にイギリスでも耳にしたから、
もしかしたらなにかのコンテンツで使われたのかもしれない

当時、本当に大好きで
風を切って歩きながらずっと聴いていた曲
わたしはもう、あのときのわたしではないけれど、
それでも、この曲は今でも、清々しい気持ちにさせてくれる


“Feel the rain on your skin
No one else can feel it for you
Only you can let it in
No one else, no one else
Can speak the words on your lips”

たとえば、自分らしさなどなくても
わたしはわたしでしかないのだから
目の前の一日を、なるべくいつも、
楽しく、真っ当にやれたらいいね

朝、窓を開けると
暗い空からぽてぽて無数に落ちてくる、みぞれ

あわてて予報を調べ、
きょうの商品撮影は諦めて、急遽あす行くはずだった病院へ
この天気では、予定を入れ替えなければどうしようもない


いつもの薬をもらいに行った病院は、
これまでに見たことがないくらいに空いていた
結果オーライという出来事が、こんな日にもある

できた時間で、確定申告の準備
なんだかなあとは思うけれど、まあ、自営業だから

 

 

病院の帰り道
スーパーに寄って、自室と店のための花を探す
あるスーパーの花が、とても元気で長持ちすることを知ったのは
花屋さんが臨時休業になってしまった4年前
以来、ときどきまとめて買ってきては、好き放題に生けている

きょうは明るい黄色のミモザを一枝
ミモザは、どの角度から見ても華やかで可愛らしくていい

 

ちょうど10年前の今ごろ
南フランス、カンヌ近郊のル・カネという町を訪れた
泊まっていたマルセイユから電車とバスを乗り継いで行ったのは、
ボナールの美術館が見たかったからだった

美術館は、もちろんすばらしかったんだけれど
それ以上に強く印象に残ったのが、
裏手の石段をずっと上っていった先で見下ろした町と
あちこちで明るくこんもりと咲いていたミモザだった
ボナールの描いた風景を、その色を、直に感じられた気がしたからだ


ボナールの歌うような、おおらかさとかなしさのある絵は、
ずっとわたしにとって特別な存在でありつづけている
だから、2月のミモザも、やっぱり特別

単純なんだけれど
愛するものはこうして、記憶とともに増えていく
心づよいことだと、この数年を経てあらためて思う

 

夏の、休暇をくっつけた出張のチケットを
ついさっき、予約した
また、めちゃくちゃな移動だらけになったけれど
仕事でもプライベートでも、いま絶対に見たいものはなにか、
自分に、問いかけに問いかけて組んだ旅程になった

いましかできない、かはわからないけれど
この旅も、ひっそりと守りたい灯りのような、
特別な記憶になればいい

 

“出張後の営業”という期間を終え、
その日の夜からオンラインショップを開けたら
瞬く間に、水曜夜の今になった

スウェーデン、イギリス、そして日本で
買った本が廊下に積み上がっている
これまでほぼ手をつけられなかったやるせなさと、
これから一冊ずつ読んでいくんだと意気込む気持ちが、半々

干からびている末端に、
すこしずつ、水をやる
そうすれば、本格的に春が来るころには、
わたしも、ちょっとは元気になっているかもしれない

 

発送作業をほとんど終えた夕方、
明日のために店を整える

店頭からなくなっていた現行の商品を補充したり
ガラスケースを拭き、空いている場所をジュエリーで埋めたり
そこにあったものの不在を感じる、
寂しくもあるその一瞬が、なんとなく好きだったりする


そうこうしているうちに、
出会ったばかりの取引先からの荷物が届いた
うれしくて、すぐに箱を開けて検品
本当に小さな商品だけれど、うちには新しい風だ

箱には、手紙とともに、
過去商品だという可愛いブックマークが入っていた
今夜からの読書に使おう、と
鞄に入れっぱなしになっていた本に、そっと挿んだ

 


Loney Dearの新しいアルバムを
このところずっと聴いている

彼の曲を最初に教えてくれた人の影が、ふと過る
夜の作業場に流れる音楽、果てしないおしゃべり
悪戯っぽい青い瞳

たしかに存在していた時間を思う
美しく切り取ったっていいでしょう


雨に閉じ込められるような夜は
音楽が、遠くに連れていってくれる
都合がいいなあと、自分でもあきれてしまうけれど
たしかにそんな気がしている

 

出張後、最初の営業を終えて
ひと息ついた、きのう
異様に早い時間に、取引先からのメールが届いた

タイトルを見て、右手のカップを落としそうになる
慌ててメールを開けると、冒頭に
このお知らせをどう書くか、百万通りも考えたけれど、
簡潔な、理解しやすい説明が正解に感じた、とあって
もう画面が涙で滲んでしまう

廃業のお知らせ
昨年がどれほど厳しい状況だったかが、
メールには、たしかに簡潔に綴られていた


実は、先週にも、
別のブランドから終了の知らせを受け取ったばかり
そちらは、もともと権利関係が複雑になっていたために、
結局、なんだかんだで既存の商品は続けていく目処が立ったのだけれど
たった数日で、これだけのことが起こるのか

どちらも、わたしが学生だった頃にロンドンで見つけて
店のオープン当初から一緒にやってきたブランド
個人的にも10年来、愛しつづけてきたものたちだ


生産コストは大幅に上がり、売上もまったく読めず、
以前までの商品は、まったく利益が出ないのでもう作れないのに
新しくいいものを作る努力をしても伝わりにくく、売れにくい
この業界、とくに小さな会社の多くは
いま、そういう苦境にある

皆の努力に報いることができるように
とにもかくにもお客さんに商品を手に取ってもらい、
作り手の人たちを支えたいと思ってやってきた
だけど、それでも、わたしは非力で
この程度ではどうしようもないということばかり

悔しさに似た気持ちでいっぱい
きのうは苦しくて、眠ることができなかった

 

それでも、この業界が好きだから、
いつかは戻ってくる、という言葉を信じている
同じブランド名でということはもうないかもしれないけれど
また彼女がものを作るなら、支援がしたい

わたしも、いつか来るその時に
まだきちんと店を経営していられるように、
焦らずに、ひとつずつ手を打っていく
やれるはずのこともできないのが、いちばん嫌だ


いま、これを書いている最中、
また別の取引先からメールが届いた
差出人を見ただけでどきりとして、慌てて開いたら
これまで担当してくれていた方が産休に入るそうで、
新しい担当の方からの挨拶だった

よかったら電話で春夏の新作のことを話したいんだけれど、
来週月曜日はどう?とメールには書かれていて
変わらないことへの嬉しさと、安堵と、
廃業を決めた取引先との思い出とが一気にやってきて
目を閉じ、また、深呼吸をした


重すぎる気持ちに振り回されながら
こうしてやっていく
パワーのある店で、自分でありたいと思う

きょうこそは、ちゃんと眠る
きっと、明日はやってくる

 

ロンドンから、今度は中央アジアを突っ切って
京都へ帰ってきた


イギリスの後半は、
誰かに会って、また会って、という数日
あちこちのディーラーさんを訪ねてヴィンテージ品を仕入
ひとつ新しい取引先が決まり
かねてからの取引先の方とプライベートでランチに出かけたり
妹家族がロンドンへ来てくれて長い散歩をしたりした

旅中は毎日、ノートに長い日記を書いていたのだけれど
それがなければ、記憶が取り戻せなかったくらい
とにかく慌ただしく、だけど、
出張はこうあるべきという日々だった

ひとりでいる時間は短かったのに、
内向きに、あれこれ考えを巡らせていた
それもまた、旅


今回は、なかなか美術館へ行く時間が取れなかったけれど
最後の日には、どうしても見たい展示があって、
British Libraryに駆け込んだ
“Fantasy: Realms of Imagination”

展示には、古今東西のファンタジー作品の本が
時代やジャンルにかかわらず並べられていて
なぜこの隣がこれなのだろう、とじっと考えながら、
一冊一冊のキャプションを読んだ
ファンタジーは、ファンタジーである、という点ですべて対等で
わたしはまずそのことに、漠然と憧れがあるのだと思った

大学での文学の授業
暗闇のなか手を伸ばすようにして、
ファンタジーの端っこを掴もうとした
ひたすらにもがいていた、この街での過去の時間を
飾られた本の並びに重ねる

British Libraryは、当時となにも変わらず、
勉強や仕事をしている人たちでいっぱいだった

 

帰ってきてからは
とにかく、日曜から店を開けるために働いている
だけどとにかく開梱に手間がかかって、
これ、本当に終わるのかしら

だけど、わたしの数少ない自慢は、
いつもなんとかかんとか間に合うところ
まあ、値札を付ける時間は今回も確実にないから、
間に合っているかというと微妙ではあるけれど


時代やジャンルにかかわらず、
ぎゅうぎゅうに、でもきちんと考えながら、ものを並べる

出張後の営業は
なによりも、楽しくやることよ

 

カムデン・タウンでの仕事が、少し早く終わり
運河沿いを歩いて、カップケーキの店へ

二度目の大学生活を過ごしたロンドンは、
北を中心に、比較的広いエリアの土地勘がある
歩ける距離かどうかや、近道、バスルートだけでなく
どの道が歩いていて気持ちがいいか、
どの道、どのバスが比較的すいているか、などなど
マップではわからないたくさんの情報が頭に入っていて
それは、いつだって、わたしを助けてくれる

世界が大きく変わっても、
そういうちょっとしたことは、案外変わらないものだ
わたしにとってのロンドン


その後、夕方は
学生時代からお世話になっているディーラーご夫妻の店を訪れた
顔を見るなり抱きしめてくれるお母さんと、
今回はロンドンの前にどこへ行ってきたの?写真を見せてよ、と
うきうきわたしのスマホを覗き込むお父さん
ずっと慕っているふたりだ

サン・セバスティアンへ行ってきたよ、と言うと
ええ!?わたしたち、サン・セバスティアンで結婚式をしたのよ、と
お母さんが驚くのでこちらも驚いた
彼女が北スペインの出身とは何度も聞いたことがあったけれど、
まさにあの町のあたりだということは知らなかった

いちばん古い教会で式を挙げて
町を見下ろすレストランでパーティーをしたよ、
いい思い出ばかりなんだ、とお父さんが目を細めて言う
わたしと出会う前のふたりの話は、美しい物語みたいで
もっと話して、とせがんだ


お母さんはいつも、わたしのリクエストに応えて
めったに開けないという箱や引き出しから、商品を出してくれる
お父さんはそのたび、神妙な面持ちで、
本当に、彼女がこういうことをするのはきみだけなんだよ、と言う

ただの買い付けに収まらない、あたたかい時間
こういうひとときが、この町を、この仕事を
より特別なものにしてくれているのだった

 

連日誰かのもとを訪ねては、
つぎの発注の話をしたり、古いものを買い付けたり
これぞ出張という毎日を、
イギリスに移動してきてからは送っている

今回は、とくにヴィンテージのジュエリーが、
これはというものが次々出てきていて、幸運
買い付けというのは、だめなときは
納得がいくものを揃えるのに本当に苦労するので、
こんな風に、ものの方からやってきてくれるようなことがあると
すっかりうれしくなってしまう


お客さんの好みのものを買えているかは、わからないけれど
わたしがすばらしいものだとわかっていて、言葉を尽くせば、
目を向けてくれる人たちが現れると信じている
楽観的すぎるかもしれないけれど、
そうやって、できるかぎり、愚直でいられればいい

明日もヴィンテージの日
きょうはゆっくり目を休めて
早朝から、また、出かけていく

 

 

休暇、最後の目的地は
スペイン側のバスク地方サン・セバスティアン
なにも考えずに散歩がしたくて、
以前にもいちど訪れたこの町へやってきた

海辺では、砂浜にゴールを置き、コートを描いて
子ども達がサッカーをしていた
かわるがわる張り上げる声が、波の音に重なる
ちょうど引き潮で、まだ水が残っているところもあるのに
皆かまわないという様子で、ボールを追っていた

わたしの好きなサン・セバスティアン
そして、わたしがサッカーを好きな理由が
数年の時を経ても、変わらずこの砂浜にはある

 

サン・セバスティアンは小さな町だけれど、
安くて美味しいピンチョス屋がひしめいている
パン屋と、コーヒー屋と、チョコレート屋も

前回来たときは学生だったから、
旅先でお腹いっぱい食べられるということに感激したものだ
今も正直なところ、その感覚は変わっていないけれど、
今回は、より好きなものを、好きなだけ食べた


思い立ったら海辺を歩いて、
夜は、ひさしぶりにKindleで漫画を大人買いして読んだ
サッカースタジアムまで出かけていって賑わいを楽しみ、
カフェでコーヒーを飲みながらただ道ゆく人を眺め
仕事とは関係のない買い物を、いくつかした

楽にしていればいいのに、ずっと少しだけお洒落をしていたのは
学生の頃とは違う心持ちでここに居たかったからかもしれない
ちゃんと心を休めることができる、自分で

 

 

休みが終わってしまうのが悲しくて、
ピンチョス屋で夕食をとった後、すっかり暮れた旧市街を歩く
スペインの夜は長いから、19時半はまだまだ入り口
普段は旅先で夜の散歩はしないけれど、たまにはいい

アイスを買って、雑踏のなかで齧る
帰りたくなくて駄々をこねるなんて、子どもみたいだ
大人になれない大人


まあでも、しっかり充電ができたから
また、わたしなりの日々を精一杯やるだけよ

前よりもちょっと背筋を伸ばして
愛すべき仕事の場所へと、飛んで行く