午前だけ、自分の時間ができそうで
とりあえず街へ出る

水曜日の午前中は、
観光地でもなければ、さすがにわりと空いている
なんとなくぶらぶらしたい、という願望を満たすため
とりあえずのBAL

洋服でも見るはずが、
結局、まっすぐ丸善に吸い込まれて本を買い
最上階のカフェで、パンケーキを食べて時間切れ
文字も読めないほど疲れていたはずなのに、
結局、これがわたしにとっての回復なのだな、と
自分で自分が可笑しかった


きょうは本屋で時間を使ったけれど、
気分を変えたいときには、BALへ行くことが多い
色とりどりの洋服を見たり、
自分にとっての新しい香りを探したり
雑貨店で、思いがけず美味しいものも見つけられたりする

とくに、ロンハーマンのカフェは、
天窓があってとにかく明るく、ほかの店にはない解放感がある
繰り返すけれど、とにかく、特筆すべき明るさなのだ

小さな頃から親しんでいた以前のBALがなくなったときには、
あの薄暗い感じが失われて寂しかったけれど
そもそも、周辺のほかの好きな喫茶店は、だいたい薄暗いので
いまはこの場所を貴重だと思うようになった

ずいぶん人が増えた今、なんだか、
街なかは自分がいる場所ではない、という気もしてしまう
それでも、座るだけで気持ちが塗り替わるこの新しい店は、
切り札のような存在の、ひとつ

 

弱音ばかりになってしまうなあ、と
なにかを書いては消してを繰り返す

片付けることもできないものが積み上がる日々
なにかを間違えていませんように、と
ただただ祈るような気持ちで過ごしている

とはいえ、わたしにはコントロールできないことも多すぎて
もはや悟りの境地というか、居直りはじめた
そのうち、ある程度なんとかなるでしょ、きっと


まあ、でも、思えば
2024年はこういう年だった
年始から今までずっと、
ひたすらにこういう年だったように思う

とにかく、毎年2ヶ月かかる棚卸は、
いよいよ始めないとなんともならないので始めないと
今年の総括はその後だ

今年を象徴する12月は、
多くの人に会える、店に活気がある12月でもあるから
なるべく明るく走りきって
いやー、すごい年だったなって
笑って振り返れたらいいね

 

 

きのうからの寒さに気をよくして、
もこもこと着込み、仕事へ

ジャケット、マフラー、ハンドウォーマー
あれもこれもと足せる、この季節の装いが好きだ
ようやく感じるようになってきた冬の気配を、
大きく息を吸い込み、たしかめる


昼休み、もう終わってしまったかしらとバラを見に行くと
あちこちの花が、まだ綺麗に咲いていた
今年の初夏には、清々しいくらいに一斉に咲いていたバラだけれど
秋は、気候をうかがって、様子を見ながら開いているようにも見える

ジャケットとマフラーによく合う花を見つけ、
なんとなく嬉しくなって、隣に立ってみる
ジャケットの前立てとポケットの縁が水色だから、
これで青空ならぴったりなんだけどな、と
冬の京都らしく、そうもいかない空を見上げた

 

サーモンピンクのマフラーは、
いつかのストックホルム、2ヶ月の滞在のお土産
期間が9月半ばから11月末までだったこともあり、油断していて
防寒着が手薄で、現地でマフラーを買い足すことになった

その年はとにかく、滞在していたあいだずっと絶望的な天気で
ほとんど晴れず、来る日も来る日も曇りや雨、霧、あるいは雪だった
そのうえ11月は、日の入りが15時前になるので、
13時台からもう仄暗く、午前の授業を終えるともう気分は店じまい
いまだから笑えるけれど、よくあの長い夜を生き延びたものだと思う

古本屋のセールで手に入れてきた資料を、部屋に積み上げ
穴ぐらのような喫茶店でクッキー2枚と、おかわり自由のコーヒーを片手に、
ひたすらに文字を追っていた2ヶ月
連なった島の上の街らしく、借りていたアパートの近くには大きな橋があって
出かけていっては、ただ、霧に沈む線路や吹きすさぶ雪を眺めたものだ


いまよりずいぶん、物価もクローナも安かったころだったけれど
このマフラーは、そんな中、とてもとても悩んで買ったのを覚えている
それでも、やっぱりこれがどうしても欲しかったというのは、
あの暗い天気と、当時のわたしの憂鬱が、多分に反映されているんだろう

それまでは持つことも考えなかったような、明るいピンクを
あれから長い時間が経っても、大切に身につけている
自分を守ってくれる、願いそのもののような色だと、
いまになってみると、ときどき、思う

 

このひと月は、店のために、時間を作っては翻訳の作業をしていて
スウェーデン語と日本語のあいだを、行ったり来たりしていた
来年は、ちょっと、自分のためにまとまった量のなにかを書けたらいいな
まだわからないけれど、いまつらつらと書いたみたいな、
ものにまつわることや、忘備録みたいな、個人的ななにか

と、ぼんやり考えているけれど、
まだ11月だって10日あるのだから
こんなことばかり言っていたら、鬼が笑うかもしれないね

 

3日間にわたるディスプレイ替えが
ようやく、ひと段落

ディスプレイは、実は、もっとも大変な仕事のひとつ
これだけ商品があると、詰め込みながらバランスを取るのは難しいし
うちの場合はジュエリーも季節にあわせて並べ替えるので、
いったんまっさらな状態にするだけでも、ものすごく時間がかかる
こだわって、なにか違う、とあちこち直しながらやっていくから
本当にいつまで経っても終わらない

それでもこれは、もっとも楽しい仕事のひとつ、
もっともやりがいのある仕事のひとつだ
足し算のディスプレイでもいいんだとお客さんに思ってもらいたいし、
ヨーロッパのクリスマスの美しさを、伝えられる機会でもある

わたしだって、今はクリスマスが特別なわけじゃない
子どももいないし、恋人とも近くにいられないし、ただの平日だけれど
それでも、課題に追われつづけた長い留学生活に彩りをくれた、
その、きらきらとおおらかな空気が好きなのだった


先週から今週にかけては、大きな箱が計7つ、店に届いた
まだ開けられていないのはあとひとつで、
我ながら、ディスプレイと並行してよくがんばったものだと思う

今年は、イレギュラーな仕事もないはずなのに、
とんでもない忙しさで、さすがは11月という感じ
いつもより穏やかになるかも、などと先月時点では思っていたのだけれど
むしろ、講演とその準備があった一昨年と去年は睡眠時間が短すぎたので
今年くらいを基準にして考えたほうがよさそうだと、今さら

店をはじめて7年が経っても、
うまく回らないことだらけで、調整、調整、の日々
一生修行なんじゃなかろうか、と思うけれど
ひとりでやっているからこそで、まあこういうのも悪くない

 

とくに、つらいことが続いて視野が狭くなっていた最近は、
なにを書けばいいのかわからなくなって、結局、なにも書けずにいた
誰に見せるわけでもないノートにすら、
視野が狭くなるってこういうことなんだな、とただ書いているくらいで
落ち着いたいま、ほんとうに感情に振り回されていたのだなと気づく

そういう中で、わたしが避難していたのは、
より狭いスウェーデン語のなかだったように思う
読んで、考えて、書いて、とちいさな池で泳いでいるあいだは
目的があって余計なことを考えないからか、頭のなかがすっきりとして、
日本語のなかにある感情を、すこし忘れることができる気がしていた

言語は思考や感覚に影響するという仮説、
つまりlinguistic relativityについて
いつか大学の授業で話し合ったことを思い出す
だから言語を替えることは、靴を替えるみたいに簡単ではない、と
そのとき読んだ文章にあったのを覚えているけれど
簡単じゃないからこそ、こうして自分のなかに別の場所を作れるのだと
こういうことがあると、あらためて実感するな


ともあれ、ようやく感情を隔離する必要がなくなってきたから
すこしずつアンテナを広げなおして、
手のなかにあるものを丁寧に見ていけたらいい

まだ半分ある11月を、
忙しいと笑いながら、新しい気持ちで過ごすのだ

 

ほかの本と並行して、すこしずつ、
とくべつな飴玉でも楽しむように
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』を読んでいる

実はちゃんと読んだことがなかったダ・ヴィンチの手記を
読もうと思ったのは、ある文がきっかけだった


“人は時があまりに早く過ぎ去ることを嘆くが
それは違う

時は十分すぎる時間をかけて
移ろうことを知るべきである

我々は天から授かった力によって
遠い記憶を眼の前に感じることが出来るのだから”


わたしは、“他人の言葉”を集めたノートを持っているけれど
その最初のページに書いてあるのが、この一節
たしか日曜美術館だったか、テレビ番組で紹介されていて、
録画を何度も一時停止しながら、一言一句書き留めた
以来これはずっと、自分の真ん中に置いている言葉のひとつだ

だけど、出典がどこなのか、
実際のダ・ヴィンチの言葉がどんなものなのかは、ずっと知らずにいて
わたしはそのことを、なんとなく、居心地悪く感じていた
それで、数年の時を経て、
岩波から出ているダ・ヴィンチの手記を、頭から読んでみることにしたのだった


該当の箇所は、なんと上巻の77ページで、
あっという間に見つかった

人々が時の流れの余りにもすみやかなるに罪を着せて時の逃れ去るを欺くは見当ちがいだ、かれらは時と言うものが十分の余裕をもって推移するものであることを悟らないのである。だが自然がわれわれに贈ってくれた上等の記憶は、過去って遠い昔のあらゆることどもを目前にあるがごとく思わせる。〔CA.71 v. a.〕

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』(杉浦明平訳)岩波文庫 より

こんなに簡単に見つかるのに、これまでなぜ読まなかったのかと
あらためて申し訳ないような気持ちにもなるけれど
ともあれ、支えにしている言葉との出会い直しだ


時間と記憶、は
わたしにとってはもっとも大きなテーマというか、
幼い子どもだった頃から、もっとも失うことを恐れているものだ
こうして長年、自分以外にはなんでもないような文章を書いているのも
高校生活が終わるころに、写真を趣味にしはじめたのも、
学ぶことと、自分なりの店、という、直近のわたしを貫いてきたものたちも
時間の経過への、そして記憶を失うことへのおそろしさ、
もっと正確に言えば、それを避けられないことの無力感が、結局根底にある

手から溢れていくものへの執着
そう書くと、ちょっと大げさなんだけれど、
でも、それがわたしを動かしているのだと思うし
今こうなんだから、もうきっとこれから先もずっとこうなんだろう

そして、時間は、十分すぎる時間をかけて移ろう、というのは
昔のわたしにとっても、今のわたしにとっても、
発想の転換というか、救いのような言葉だと思う
あまりにも変化が早い世界と、そこから振り落とされそうに感じる自分の間には
いつだって、正確に刻まれる時間がある
たとえどういう風に感じようとも、その事実だけは変わらないのだ


それはそれとして、わたしはこれまで、
知識が広く、それだけにこだわりが並々ならぬ強さで
ひとつの作品に膨大な時間をかけたので完成したものが少ない、という
あまりにも雑で偏ったダ・ヴィンチ像を描いていたわけだけれど
こうして多くの言葉を辿ってみると、それなりに新しい面も見える

なにより面白いのは、彼は無知への反撥を率直に言葉にしているということ
絵画や言葉だけではない、人間としてのダ・ヴィンチ
こういうところで感じるというのもなんだけれど、
手記のほかの部分を読むと、やはり深い思考や強い探究心は俗世離れしていて
それだけ自分の好奇心、得た知識と経験に自信を持っていたのだろうと思う

人々がありとあらゆる悪口を並べて、経験はいつわるものだと非難して、経験のことをこぼすのは見当ちがいだ。そういう憤慨は、その経験をおいて諸君の無知のほうへ向けるがいいのである。〔CA.154 v. a.〕


そういえば、ダ・ヴィンチってどんな人だったのかなあ、とか
これまでぜんぜん思ったことがなかったな
もっと報われたかっただろうか、もっと作品を作りたかっただろうか、
もし望んだものを得られたなら、どんなものを得たかっただろうか

わたしが探していた箇所は、アトランティコ手稿の一部とわかったので
公開されているデジタルアーカイブのページを繰ってみた
自分が書き残した膨大な紙の束が、500年も後にこうしてデジタル化されて
当時は命懸けで行くしかなかったはるか遠くからアクセスされるなんて
ダ・ヴィンチ本人が知ったらなんと思うだろう、と
ちょっとばつが悪いような、やっぱり愉しいような、不思議な気持ちだった

 

 

きょうは、きのう降り続いた雨がうそみたいな、
どこまでも澄んだ晴天
ほとんどの時間を、事務所で仕事をして過ごしたけれど
それでも、陽当たりがよくない窓から差す光までふんわりと明るく、
この青空はどこまで続いているのだろう、と、あてもないことを考えた

穏やかに過ごすというのは、なかなか難しい
だけど、目の前の光景を、美しい瞬間を
正確に刻む時間のなかにあるからこそ、心に留めていたいと思うのだ

 

仕事場の近くでも、
あちこちから金木犀が香る季節になった

先週体調を崩していたというお隣さんと立ち話
鼻の調子が戻ったら金木犀の香りがした、
この時季は長くないのに、逃していたと思うと悲しい、と言う

大丈夫、まだ始まったばかりだから、と笑って
まだまだ暑いねえ、と窓のそとに目を向けた
子どものころに親しく思っていた、心安らぐ季節
いまの秋は、ずいぶん違う顔をしている


先々週編みはじめた姪のセーター
秋冬らしい紫色の、ふわふわの糸を撫で、
動物がひざにいるみたいだと、思う

来月7歳になる姪だけれど、
セーターは8歳サイズで編んでいる
今年の冬は、もし着られても僅かだとわかっているからで
わたしも、まわりも、まあ子どもは育つからとおおらかだ

編み物は年じゅうできるけれど、
やっぱり、季節を感じられる瞬間がいちばんいい

 

先週後半は、腕じゅうが湿疹と蕁麻疹だらけになっていたうえ
仕事でしんどいことも重なって、すっかり参ってしまった

だからその分、時間を惜しんで、作って、
自分のための作業に注いでいた
考えれば考えるだけ、どこまでも悲しくなるなら、
ほかのことにリソースを割くのみだ

スウェーデン語の先生に、作業途中のものを見せて
これはわたしの、ある種の夢なの、と言葉にする
今やっているのは、本当に小さなことなんだけど、と続けたわたしに
先生は、小さなことからひとつずつやってるんだ、いいじゃない、と言った


いつから、“小さなことなんだけど”というのを、
言い訳のように使うようになったのか
勉強も仕事もずっと、小さなことからひとつずつやってきたはずなのに
誰に軽んじられても、雑に扱われても、勝手な評価をされても
そんなことばかりのときが長すぎて、もはやどうでもよかったはずだ

わたしに必要なのは、いつも手が届く、目の前のなにかだった
そう考えると、悲しさも和らいでいく気がするな

 

先週土曜からは、オンラインショップの仕事をしている
今回はとくに、体がひとつでは足りないような作業量で、
でも、それくらいがちょうどいいのかもしれない

夕方、店のそとに、
梱包が終わり集荷を待つ箱を、煉瓦のように積み上げた
秘密基地でも建てているみたいだ

遠くで、誰かが、喜んでくれるかしら
そうだといいなと、心の底から、思う

 

楽しみにしていた、ふたり旅へ

今回は、レンタカーで尾道から今治方面に島々を渡り
高知へ行ったあと、東予港まで戻り夜行フェリーで大阪に向かう、という
なかなかハードな旅程
そのうえ、運転した彼は、土曜に神戸でレンタカーを借りて淡路島、徳島と走り
香川に泊まって、日曜昼に福山までわたしを迎えに来たというから
その体力にただただ感心してしまう

美しい風景を、海風を、陽の光を、目一杯吸い込んだ
パワフルで明るい、自由な旅だった


実は、しまなみ海道は二度目で、
前回はたまたま台風のときに当たってしまったのだけど
今回はお天気に恵まれて、無事にリベンジ達成
泊まった生口島をメインに、浮かぶ島々をつぎつぎに渡って
釣りをしている人たちを眺めたり、透明な水辺を歩いたりした

高知市の牧野植物園は、言わずもがな素晴らしいところで、
最初の温室ではしゃぎすぎて体力を使い切ってしまうほどだった
ちょうど、牧野が信頼していた植物画家、山田壽雄の企画展もやっていて
緻密で美しい植物画の数々に釘付けになった

生口島では鯛の釜飯、高知では鰹のたたきを食べ、
東予からのフェリーでは宇和島の鯛めしを食べた
大阪でも朝から市場に行って鯖を食べたので、
終始、魚料理を楽しんだ旅でもあった

どれだけ言葉を足していっても、ぜんぜん足りない気がする
太陽に目を向けたあとみたいに、瞼の裏にくっきりと残る、
眩しい三日間

 

そもそも、こういう旅程になったのは
わたしが今回の旅行の前半部分のプランを、彼が後半部分を
お互い、相手も考えているとは思わず、同時に立ててきたからだ
8月末に因島でのライブが中止になってしまったばかりの彼と、
牧野植物園へ行ってみたいと口にしていたわたし
ふたりとも相手のことを思って組んできた旅程だったのがうれしくて
くっつけられそうだったからくっつけたのだった

結果、なかなかの移動距離にはなったけれど、
わたし達らしい、いい旅だったよ

 

 

日本で夜行フェリーに乗ったのは初めて
部屋は綺麗で、大浴場まであり、
食堂のご飯もどれを注文するか迷うくらいだった

船の甲板からは、
真っ暗な海と、線のように連なった街の灯りが見えた
明るい月から遠いところにある星を数えながら、
水をかき分ける勇ましい音をただ聞いていた

こういう乗り物が好きな彼は、
生き生きと歩き回り、あれやこれやとわたしの世話を焼いていた
わたしもフェリーが好きで、海外ではいろんな路線に乗ってきたし
ひとりで本を読んだりして過ごす気楽な船旅もいいけれど、
隣にウキウキの人がいるというのもいい

また、どこかの路線に一緒に乗れたらいいな
これからの楽しみがひとつ、増えたかも

 

陽がある日でも薄暗い事務所
ロールスクリーンを上げ、陰のような光を受ける

ブライトンで出会い、
パリから送ってもらったガラスモビール
これで、わたしは必要な明るさを補っているのかもしれないと
とりどりのパーツをそっと揺らしながら、思う


先週と今週は、出張中休んでいたオンラインショップの仕事
8月頭以来のオープンだったうえ、新入荷と再入荷の商品も重なって
2週に分けても、目の回るような忙しさだった

梱包や事務作業のため事務所を契約して、もうすぐ2年
入居して1年半が経とうとしている
この場所なしでどうやって仕事をしていたのか、もう思い出せない


夕暮れの運河を描いた小さなアクリル画
アムステルダムで買って、額装に出している
すでにいくつかのリトグラフやポスター、モビールが飾ってある部屋に
またひとつ大切なものが加わることがうれしい

わたしの部屋や仕事場は、どこもごちゃごちゃとしているけれど
置いているのは記憶そのものだと思うし、その全部を愛している
そして、そんな風にものに気持ちを預けるから、
わたしはこういう店をやっているんだろう

 

きょうは半休にして、午前中は編み物をしに行っていた
ひとりめの姪が生まれた頃からだから、もう7年、
月に一度通っている教室

2時間、ワイワイ雑談をしながら作業をして
店舗で毛糸や新しく出たパターンをチェックし
近くの喫茶店でプリンを買って帰る
出張だったりで行けない月もあるけれど、
とても楽しみにしていて、やめることは一度も考えたことがない


今週は、土曜日の午前に、スウェーデン語の先生にも会う
仕事が積み上がっていてもなんでも、
それをかき分けるようにして自分の時間を持つことは大事だ

きのうは深夜に、慌てて姪のセーターの作り目をはじめたし
きょうからはできるだけスウェーデン語の本を読んで、
見てもらう訳と質問を持っていく
睡眠より趣味というのもどうかと思うけれど、
すこしでも上手くなりたいという気持ちは、なんだかんだで強く
それが心地よい緊張になって、日々を支えてくれている


それにしても、きょう、
サンプルがあまりにもかわいくて
思わずぬいぐるみを編むための糸と本を買ってしまったのだけど
この秋、これを編む時間がはたしてあるだろうか

まあ、でも、
編みたいものが渋滞しているのも、幸せなのかもしれないね