仕事の日曜日
事務作業のために店に戻ってくると、
ドアの前に、花束

パステルカラーの花々に顔を近づけると
添えられていたメッセージカードが目に入った
いつもの狭い廊下には、眩しいくらいに光が差していて、
このビルのオープニングパーティーの日みたいだった

まず花束だけを大事に抱え、
新しい事務所へ持って行って、飾った
この事務所に飾る、はじめての花が、
きょう、この花束で幸せだ


実は、以前にも
同じ方から花束を贈っていただいたことがある
今だから言えることだけれども、
わたしも店も、すっかり弱っていた頃で
そのときにも淡い色の花を抱いて
こんなにやさしい方がこの世にいるのだなと思った

わたしは、ひとりで店をやっているけれど、
お客さんの言葉に、気持ちに、支えてもらっている
とくに2020年の3月からは、
自分自身の強さだけでは、きっと超えてこられなかったことばかりだ

できれば、多くのものをお返ししたい
あかるい瞬間を、ひとりひとりに手渡せるような店を作りたいし、
わたし自身もそんな風にありたいよ

 

さて、そんなきょうだけれど
オンラインショップの仕事が再びのてんてこ舞い
前回売り切れてしまったものを、すぐに発注して、
オランダの会社がなんと10日で届けてくれたので
これでもう大丈夫…と安心していたはずが
1時間半ももたず、また品切になってしまったのだった

かと言って、もっとオーダーすれば良かったかというと
そうでもなく、これくらいが限界だと思う
たくさんの在庫を持つリスクもあるけれど、
そもそも、わたし一人で梱包をしているわけなので
発送できる数に上限があるのだよ

ものを好きになってもらえる喜びと、
自分自身ができる仕事の最大限
いつでもせめぎあい


梱包材とダンボールが積まれた部屋を見回して
どうすれば使いやすくなるかと、考える
デスクと棚以外のものが多すぎる
この仕事の縮図だなと、思う

明日は、また新しい家具が届く
使いやすく、以前の問題で
まず置く場所をつくらないといけない

すこしずつ整える
日々の仕事をしながら、すこしずつ

わたしの仕事らしく、そのことを楽しんで
新しい場所を育てていけたらいい

 

近くて遠い、奈良と大阪へ
案外旅らしい旅

最初は、和歌山まで行こうとしていたのだけれど
のんびりしすぎていて、行き先を奈良に変更
なんだかんだ、これくらいの速度がちょうどいい


鹿を愛する彼は、鹿せんべいをわたしにひと束持たせ、
思いっきり追われる様子を見て満面の笑顔だった
鹿じゃなくて人をもっと大事にしたほうがいいよ、と言ったけれど
まあ、楽しいならいいんです

生駒山の上に遊園地があるという話をしたら、見てみたいと言うので
ケーブルカーで上っていった
ほとんど乗り物には乗らず、ぶらぶら散歩をしただけでも
山の上はすがすがしく、見下ろした大阪は美しかった

行きたいと思った場所に、ただ移動するだけ
その場の気持ちを優先させる休日は、何にもかえがたい


それにしても、今回は西梅田に泊まったのだけど
夜になってから阪急まで歩いていって京都にはない店を覗いたり、
ルクアの地下で海鮮丼を食べたりして
(バル&Foodsのフロア、何もかもがとんでもなく楽しかった)
ふだん京都でも街なかをあまり歩かないわたしは、
思いのほか心動かされてしまった
夜に自由な時間を謳歌するというのは、なかなかにエモーショナルだ

そういえば、梅田近辺に泊まるのは初めてだったけれど
泊まるからこそいいというのはあるのだね

 

仮想の誰かへ向けた説明になってしまわないように
書けない、書きたくないことはたくさんあるけれど、
大切だと思った時間のことだけは、残しておきたいと思う

笑いの絶えない休日だったよ
それが全てではなくとも、
そのことが残るのは、すくなくともわたしには大事


こうありたくはない、という自分から
なるべく遠い場所にいられるように、
日々を精一杯やれたらいいね

旅の感想としては、あまりにも、という感じだけれど
細く続いていく日々を、守って

 

夕方遅く、違う場所でデスクワークをしたくて、
仕事場の近くのカフェに出る

春になってからは、遅い時間に行くと
ほとんどデザートが売り切れになっているその店
よく会う店員さんに、これはまだあります?と訊くと
あ、たぶん、とちょっと砕けた感じで答えてくれた
コロナで空いていた頃からずっとそこにいる店員さん、
いつもの空間、好きなメニュー

水のなかにいると
ときどき水面に顔を出さなくてはいけないように、
必要な時間というのがある
そのために出かけるのは、けして遠くではなく
こういうなんでもない近くの場所だ

 

慌ただしい一週間を終えたら、
さらに慌ただしい一週間がやってきた

予想をはるかに超える忙しさをきわめているところに
イレギュラーな仕事が次々降ってきて、てんてこ舞い
てんてこ舞いってひさしぶりに使ったな、と思うけれど
まあ、うん、この単語がぴったり

とにもかくにも、詰め詰めで三日間働いて、
明日はすこしだけ余裕ができそう
午前にネイルを予約しているので、無事行けそうでほっとしている
いや、ほんと、こうなるとは思わなかったんだよ

 

片袖の終わりを目前にした姪のセーターを前に
どの段で中断してたっけ、と、目を数える

スピーカーから流れてきた曲に、ふと手を止めた
ボブ・ディランの“Don't Think Twice, It's All Right”
サシャル・ヴァサンダーニのヴォーカルに
ロメイン・コリンがピアノを重ねたカヴァーだ

 

 

“And it ain’t no use in turning on your light, babe
The light I never knowed
An’ it ain’t no use in turning on your light, babe
I’m on the dark side of the road”

この部分の歌詞がいちばん好き
そこだけ一緒になって口ずさみながら、
いかにもわたしの好みだなと苦笑する

わたしのこういうところは、本当に変わらないけれど
それでも、結構いろんな在り方ができるものだ
Don't Think Twice, It's All Right


この三日、身体も使ってへとへとだけれど
今夜は、仕事じゃなく夜更かしして
濃く淹れたお茶を、薄めながらゆっくり飲もう

眠くなるまでのこの時間は、
どこまでもわたしだけのものなのだから

 

重なるにわか雨で
葵祭の行列が延期になった、きょう

一日の仕事を終えて、緑の葉が光る並木道を歩く
ずいぶん日没が遅くなり、
日々享受する景色は、きらきらと明るいものになった

雨上がりの土の匂い、夏の形に近づいている雲
葵の季節の瞬間瞬間は、
小さなわたしには抱えきれないほどに美しい


エミリー・ディキンソンの詩を、
頭のなかで反芻する
すっかり覚えてしまった一節

 

But were it told to me, Today,
That I might have the Sky
For mine, I tell you that my Heart
Would split, for size of me –

(F336 Before I Got My Eye Put Out より)

 

空も、草地も、山並みも
森も星も、水に来る鳥の動きも朝の琥珀色の道も
わたしのものだ、好きなだけ見ていいと言われたら、
その衝撃で死んでしまいそう
だから窓辺に心を置く、という風に、この詩はつづく

わたしは、太陽の下を散歩しているひとりで
詩人の本当の切実さは、永遠に理解することができないのかもしれない
だけどときどき、ささやかで果てしない風景のなかに身を置くと
この詩を暗誦しては、決まってふわりと訪れる不安の源を思うのだ

 

愛してやまない、スピッツの『流れ星』に
“本当の神様が同じ顔で僕の窓辺に現れても” という詞がある

はじめてこの曲を聴いたとき
僕の窓辺、という言葉を、何度も頭のなかで繰り返したことを覚えている
子どもなりに、腑に落ちたんだろう

たとえば、アンデルセン『絵のない絵本』でも
月が窓辺にやってきて、広い世界の話をしてくれる
そういう印象があるからか、わたしは、
自分の窓辺、というひとつのイメージを長年育ててきたような気がする

わたしは、わたしごと、あちこちに移動しながら
心のなかでは、だいたい、そこにすわっている
なんて内向きなんだとうんざりもするけれど、
わたしの想像上の窓というのは、自分を守るための手段だったし
いつでもひっそり外を眺めていたいという好奇心ゆえのものでもある


このふた月を共にしている、ハン・ジョンウォン『詩と散策』にも
近しく感じる窓辺の話があった

 

私はおとなになっても、いつも窓辺にくっついていた。窓から外を見るのが好きだった。誰かが私に近づいてくるのも、私を騙すのも、私から離れていくのも、すべて窓から見た。あるときは窓を閉めて怯え、またあるときは、窓を開け放して行き交う人たちに手を振った。つまり、窓を自分の心のように、自分の言葉のように、使ったのだ。

(『窓が一つあれば十分』より)

 

人は皆、それぞれに窓辺を持っているのだな、と
大人になってずいぶん長い時が経ち、
さまざまな土地で暮らし、さまざまな人と接して
そして、さまざまな言語で誰かが書いたものを読むようになった今
あらためて感じるようになった

そして、あまり開け放すことがないわたしの窓辺にも、
鳥のように飛んできてくれる人たちがいて
だから、わたしはわたしという形を保っていられるのだと
とくにこういう美しい日には、しみじみと思ったりする

 

月に一度の編み物教室を前に、
どうしても裾のリブを終わらせたくて
じっと作業していたら、3時

とじ針を使うItalian Bind Offは慣れても複雑で
集中しないと間違えそうだったので、音楽もかけられない
ただじっと手を動かしていると、スウェーデンの工芸学校にいた頃、
こうして、しょっちゅう朝方まで針を持っていた記憶が降りてくる

雪が音を吸って、痛いほどに静まった森
氷をまとう木の陰から上ってくる、明るいペルセウス
そういうイメージが、作業と固く結びついていてくれるのは
とても幸福なことだ

 

 

きのうは、ケンブリッジから
取引先のふたりが、京都に遊びに来てくれた
ホテルか街なかまで会いに行くつもりだったのだけど、
店に来たいと言ってくれたので、周辺を案内することに
ものや、お茶や、花とともにずっとお喋りをしていた、
ぜいたくな一日だった

ふたりが作るものを知って、初めて連絡をとったのは
2020年の春で、まさにロックダウンのさなか
それも、彼らは本格的に仕事を始めて半年というタイミングだった
だからこそ、顔は合わせられない中で本当に多くのことを話したし
そうして、自惚れかもしれないけれど、
仕事をすこし超えた関係を築いてきたように思う

わたしたちはメーカーと小売店なわけで、立場は違うのだけれど
意図して小さく仕事をして、そこに思いを込めている、という
とても大きな共通点がある
きのうもたくさんそんな話ができて、よかったな


自分だけで仕事をするっていうのは、雑事をするってことなんだよね、
休みどころか、やりたい仕事をする時間も全然ない、と
3人で顔を見合わせて嘆いたりしたけれど
この仕事をしていると、
時折、ご褒美のような瞬間が訪れてくれる

お客さんのしぐさだったり、言葉だったり
ものを作っている人やディーラーさんとの、
こういう笑顔の絶えない穏やかな時間だったり

だから、ほかのなにもかもを飲み込んで、
やりたいことをやっていますと言えるんだろうな
すくなくとも、わたしはそう

 

 

そちらをご覧になっている方は多くないかと思いますが
ずっと持っているホームページのデザインを、大幅に変えました
昨今のTwitterの変化で、Twilogが更新されなくなってしまったこと
(以前はTwilogを頼りにして、Twitter本体は繋いでいませんでした)
そして、もう10年近くも動かしていないブクログを、
フォローしてくださる方が多かったことがおもな理由です

ホームページ、とも、デザイン、とも言えないようなものだけれど
むしろわたしのことがあまりわからないようにしたくて、シンプルに
愛着のあったプロフィールは、
このブログの紹介文として残しました


わたしは高校生のときから、ほぼ途切れることなく
こうしてインターネットに日記を書いています
昔はブログという形ではなく、
日々、文章をHTMLファイルにして上げていました

だから、時代の遺物のようなホームページを一応続けているのは、
単にノスタルジーからかもしれないけれど
それでも、入れ物は取っておきたい
そして、きょうも、それはそれとして
ここに変わらぬ日記を書きたいと思います

あがったりさがったりしながら
飽きもせず、小さな毎日を

 

 

ストックホルムを訪れるたび、
かならず立ち寄る本屋がある

これまで、たくさんの時間をここで過ごして
たくさんの本をここで買ってきた
スウェーデン語がどんな段階にあっても、
あらゆる時や場所につながるようなこの本屋は
本を、言葉を、自分自身を楽しむ術をくれた
聖域のような場所のひとつだ

 

 

三年ぶりの店内に足を踏み入れると
耳慣れたピアノの曲
思わず息を呑み、ゆっくりと吐いたあと
姿勢を正してじっと聴いていた

いなくなってしまった遠い人と、
より透明に、力強く、存在しつづける音楽

本たちに音がこだまして、すうっと消える
あの三分間を、きっと忘れない

 

 

音楽のなかで買った本は、
詩人 ヘンリーカ・リンボンのエッセイ集だった

その中に、インゲボルク・バッハマンの
“もし希望を持つことをやめれば、
恐れていることはかならず現実になる”という言葉から始まる章があり
いまは、なんどもその上を行ったり来たりしながら
なにかを信じることなどについて、考えている


“わたしには本当に信じているものがあって、
それを「いつか来る日」と呼んでいる
その日は来る、
いや、もしかしたら来ないのかもしれない
わたしたちは何度も、何千年も、いつも打ち砕かれてきた
それでも、現実にならないとしても、信じている
信じていないと、書くことはできないから”

これは、1974年
バッハマンが亡くなる少し前のインタビューでの言葉、とある
作品のなかで、掬うようにして、多くの喪失を描いた詩人の、
絶望の、そして希望の言葉だ

ときに難解な文章のなかに、脈打つように誇りが感じられる
語るのも畏れ多い、けれど人間らしい、敬愛すべき先達
わたしにとって、そしてこの本の著者のリンボンにとっても
バッハマンはそういう存在なんだろう

 

このエッセイ集、ここだけを取り上げてしまったけれど
冒頭からずっと、思索に満ちている
こういう出会いがあるから、あの本屋へ、ストックホルムへ行くのだと
あらためて、思う

本を読むことは、森を歩くことに似ている
著者に連れられて、分け入っていく感覚

もっと遠くへ行こう
一歩、一歩、光のほうへ

 

ゴールデンウィーク、祝日の谷間
やっと行けたネイリストさんのところで、
爪を春らしい緑に変えてもらった

わたしの本名は、翡翠に由来している
子どもの頃は堅く感じていやだったけれど、
留学中、何人もの中国から来ていた子たちに美しい字だと褒められ
名前のみならず、こういう色まで好きになってしまった

青は、未だ遠くに感じる憧れの色
緑は、そばにあると安らぐ色

 

出張から帰ってきたはいいものの
とにもかくにも、時間がない
イギリス、スウェーデン、そして日本で増えた本が、
崩すに崩せず、塔のような状態になっている

とはいえ、好きで仕事を詰めているわけだし
ゴールデンウィークが終われば、否が応でも時間はできる
いまは、気持ちに栄養をやりながら、全力を尽くすのみだ


新しく事務所を構えるなら、
もっともっと頑張らなければいけないと、焦っていたけれど
恋人に、事務所ができたからって直接売上が上がるわけないんだから、
働きやすくなるならそれでもう成功なんだよ、と諭されて
コロッと、そうかも、と納得してしまった

目の前のことをきちんとひとつずつやる、というのは
わたしにとって、すべてに通じる攻略法みたいなものだけれど
その分、視野が狭くなってしまうということもある

遠い先のことも頭の片隅に置いて、ゆったり構えていこう
もしかしたらまだ、先は長いのだから

 

 

夕方、仕事のあと
光を浴びようと、散歩に出る

ひときわ美しい石楠花の前で
ひとりの女性が、お母さんの写真を撮ろうとしていた
どうしよう、シャッターが切れへんのよ、
いやきっとモデルが悪いんやわ、
そんなんやないけど、撮れへんの、と聞こえてくるので
よかったら見ましょうか、と声をかける

ああ、きっとここに触らはったからセルフタイマーになったんですね、と
説明し、あれこれお話して、結局並んだふたりの写真を撮った
石楠花の木は、ふたりよりもずっと大きくて、
薄いピンクの花が淡くやさしく、いっぱいに画面を包んでいた


藤の花が終わり、石楠花もそろそろ終盤
芍薬が咲きはじめ、薔薇も最初の何種かがもう咲いている

ついこの間まで枯れたようだった紫陽花も、
あっという間に茎を伸ばして、緑のかたまりになっていた
つやつやした葉を、そっと指でなでる
花が咲いてからももちろんいいけれど、
この時季のまだ薄い葉に水を蓄えているような紫陽花が、一等好き

眩しい晩春を吸い込む
夏までは、まだすこし時間があるはずだ