ほかの本と並行して、すこしずつ、
とくべつな飴玉でも楽しむように
『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』を読んでいる
実はちゃんと読んだことがなかったダ・ヴィンチの手記を
読もうと思ったのは、ある文がきっかけだった
“人は時があまりに早く過ぎ去ることを嘆くが
それは違う
時は十分すぎる時間をかけて
移ろうことを知るべきである
我々は天から授かった力によって
遠い記憶を眼の前に感じることが出来るのだから”
わたしは、“他人の言葉”を集めたノートを持っているけれど
その最初のページに書いてあるのが、この一節
たしか日曜美術館だったか、テレビ番組で紹介されていて、
録画を何度も一時停止しながら、一言一句書き留めた
以来これはずっと、自分の真ん中に置いている言葉のひとつだ
だけど、出典がどこなのか、
実際のダ・ヴィンチの言葉がどんなものなのかは、ずっと知らずにいて
わたしはそのことを、なんとなく、居心地悪く感じていた
それで、数年の時を経て、
岩波から出ているダ・ヴィンチの手記を、頭から読んでみることにしたのだった
該当の箇所は、なんと上巻の77ページで、
あっという間に見つかった
人々が時の流れの余りにもすみやかなるに罪を着せて時の逃れ去るを欺くは見当ちがいだ、かれらは時と言うものが十分の余裕をもって推移するものであることを悟らないのである。だが自然がわれわれに贈ってくれた上等の記憶は、過去って遠い昔のあらゆることどもを目前にあるがごとく思わせる。〔CA.71 v. a.〕
『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』(杉浦明平訳)岩波文庫 より
こんなに簡単に見つかるのに、これまでなぜ読まなかったのかと
あらためて申し訳ないような気持ちにもなるけれど
ともあれ、支えにしている言葉との出会い直しだ
時間と記憶、は
わたしにとってはもっとも大きなテーマというか、
幼い子どもだった頃から、もっとも失うことを恐れているものだ
こうして長年、自分以外にはなんでもないような文章を書いているのも
高校生活が終わるころに、写真を趣味にしはじめたのも、
学ぶことと、自分なりの店、という、直近のわたしを貫いてきたものたちも
時間の経過への、そして記憶を失うことへのおそろしさ、
もっと正確に言えば、それを避けられないことの無力感が、結局根底にある
手から溢れていくものへの執着
そう書くと、ちょっと大げさなんだけれど、
でも、それがわたしを動かしているのだと思うし
今こうなんだから、もうきっとこれから先もずっとこうなんだろう
そして、時間は、十分すぎる時間をかけて移ろう、というのは
昔のわたしにとっても、今のわたしにとっても、
発想の転換というか、救いのような言葉だと思う
あまりにも変化が早い世界と、そこから振り落とされそうに感じる自分の間には
いつだって、正確に刻まれる時間がある
たとえどういう風に感じようとも、その事実だけは変わらないのだ
それはそれとして、わたしはこれまで、
知識が広く、それだけにこだわりが並々ならぬ強さで
ひとつの作品に膨大な時間をかけたので完成したものが少ない、という
あまりにも雑で偏ったダ・ヴィンチ像を描いていたわけだけれど
こうして多くの言葉を辿ってみると、それなりに新しい面も見える
なにより面白いのは、彼は無知への反撥を率直に言葉にしているということ
絵画や言葉だけではない、人間としてのダ・ヴィンチを
こういうところで感じるというのもなんだけれど、
手記のほかの部分を読むと、やはり深い思考や強い探究心は俗世離れしていて
それだけ自分の好奇心、得た知識と経験に自信を持っていたのだろうと思う
人々がありとあらゆる悪口を並べて、経験はいつわるものだと非難して、経験のことをこぼすのは見当ちがいだ。そういう憤慨は、その経験をおいて諸君の無知のほうへ向けるがいいのである。〔CA.154 v. a.〕
そういえば、ダ・ヴィンチってどんな人だったのかなあ、とか
これまでぜんぜん思ったことがなかったな
もっと報われたかっただろうか、もっと作品を作りたかっただろうか、
もし望んだものを得られたなら、どんなものを得たかっただろうか
わたしが探していた箇所は、アトランティコ手稿の一部とわかったので
公開されているデジタルアーカイブのページを繰ってみた
自分が書き残した膨大な紙の束が、500年も後にこうしてデジタル化されて
当時は命懸けで行くしかなかったはるか遠くからアクセスされるなんて
ダ・ヴィンチ本人が知ったらなんと思うだろう、と
ちょっとばつが悪いような、やっぱり愉しいような、不思議な気持ちだった
きょうは、きのう降り続いた雨がうそみたいな、
どこまでも澄んだ晴天
ほとんどの時間を、事務所で仕事をして過ごしたけれど
それでも、陽当たりがよくない窓から差す光までふんわりと明るく、
この青空はどこまで続いているのだろう、と、あてもないことを考えた
穏やかに過ごすというのは、なかなか難しい
だけど、目の前の光景を、美しい瞬間を
正確に刻む時間のなかにあるからこそ、心に留めていたいと思うのだ