オンラインショップの仕事と、
病院、検査のための絶食で、ふらふらだった今週

こんなときに限って、
とんでもない大きさの箱が3つも店に届いた
全部、違う時期にオーダーしたもので、
どうしてこうなるのかと笑ってしまう

まあ、でも、ひとりでやっていると
大なり小なりこんなことばかり起こるよねえ、と
とにもかくにも怒涛の検品作業
商品はひとつひとつ、どれも美しくて
それだけで、わたしはここに立ち続けられる気がする

 

水曜日、精密検査の待ち時間
いつ読もうかと持て余していた、
桜庭一樹『東京ディストピア日記』を開いた

2020年1月から、2021年1月までの、
東東京での飾らない日々
流れにのまれながらも、身のまわりの小さなことを大切にして、
見えない未来を、すこしだけ見ようとする
わたしにも、たしかに、こういうときがあった


わたしは、ほとんど、
コロナ禍のことを記録に残さなかった
2020年は、自分のための紙の日記もつけず
この場所に、整えたあとの思いをすこし書くだけだった

今だって、わたしは変わっていなくて
気持ちを持っていく場所がないのに、
最近習慣にしている、ノートに書き殴るだけの日記にさえも
本当に心にひっかかっていることは書けない
どんな形であれ、それが文字になることで、
実体を持ってそこに残ってしまうことが怖いからだ

桜庭さんの日記には、
そういうわたしが、あえて残さないようにしていた多くのことが
淡々と、事実として書かれていた
休業していく店、子どもたちの休校
オリンピックの延期劇と緊急事態宣言
テレビで流れていた映像、亡くなられた著名人の方々
今思えば、受け止めきれていなかったことばかりだ


わたしは、ヨーロッパの取引先と密に連絡を取っていたこともあって
本のなかの桜庭さんよりも、というより、すくなくともまわりの誰よりも
これは本当に何もかもが止まる可能性があるのでは、と察するのが早かった
だからこそ、まわりとの温度差で、消えない大きな傷を負い
なんとか店を潰さずにその後のピーク期間を乗り越えたあとも
ありていに言えば孤独で、自分の外に目を向けることは難しかった

そういう自分の、あるいは他人の身勝手を
いまは、いまだから、必要なことだったと認めることができる
それも、無事に最善を尽くせて、店を守ることができたからで
つくづく身勝手だなと思うけれど、
あのころを誰かの目線で見直してみる、という
激しい痛みをともなうことを、やっとできるようになった
それはわたしにとって、大きな一歩だ

 

検査を待つ長いあいだ、わたしのブースの小さな窓は
大きな雨粒が叩きつけられて凄まじい音を立てていた
遠くに、近くに、ひっきりなしに雷も聴こえて
本のタイトルの“ディストピア”が反響しているようで
こんな巡り合わせ、と、畏れるような気持ちだった

思い出し、そして、考える
思い出したくないこと、考えたくないことを

この本に出会えて
この日に持っていって、よかった

 

海が流れる車窓に
ぽつぽつと現れる、小さな温泉郷

街のかつての姿を思うからだろうか、
旅先のふとした風景は、ときどき物悲しい
それでも、時代の移り変わりを横目に在りつづける海は、
一枚のフィルターのように風景を覆ってくれる

青空の日なら、きっともっと夏らしく鮮やかだっただろうけれど、
けむるような穏やかな小雨も、なかなかいい


わたし達が泊まったリゾートホテルは、
設備は古かったけれど、こざっぱりとした部屋で
半分プライベートのようなビーチがあった
天気のせいか、海に入っていたのは、外国人の宿泊客がほとんど
ちょっと、遠い国まで来たみたいだった

別荘地のカフェでなんとなくパンケーキを食べたり、
リフトで山を上って、噴火口跡を歩いたりした
小さな水族館では、立て続けに小さな、あたたかいショーを見て、
子どもみたいに手を叩いて声援を送った

絶対にこれをしようということがなかったから、
時間は、ただそこにあった
非日常の繭のなかで、守られて、
ぽっかりと浮かぶように

 

一日半の休みから戻ると、
この頃ちょっと手がかかっていた商品の、発送連絡が入っていた
そして、休み前に思いきって送っていた、別のメールの返信も

いま自分の仕事を、停滞していると感じるのは
もちろん悩みつづけている通り、外的要因がものすごく大きい
だけど、わたしがひとりでやっている店なのだから、
わたしの気持ちひとつで、動かすことはできる

ちゃんと進める、とか、すぐ効果が出るように、となると難しくても
ちょっと押すくらいなら
そうやって、手を打っていければ
そのうち、結果とまではいかなくても、なにかはついてくるはずだ


心をやわらかくして、たくさん考える
そうできるように、そのことを楽しいと思えるように、
きちんと、インターバルをとること

今更だなあ、と自分でもあきれるけれど
やっとすこし、つかめるような気がしている
だから、もっと、軽やかに

 

終わりかけの蓮を見たくて
用事の帰りに、すこしだけ遠まわり

ひっそり大切にしている場所というのが、
わたしにもいくつもあって
ここも、そのひとつ


きょうから鉾が立ちはじめ、
いよいよ、お祭りが近づいている雰囲気の京都
いや、まあ、1日からすでに始まっているんだけども
やっぱり、前祭宵山山鉾巡行のお祭り感は強い

高校生くらいのときは、浴衣を着て出かけたりだとか
そんなこともあったような気がする祇園祭だけれど
今となっては、混むなあ、、、が何よりも先に来る
そういうわたしも、四条通に流れるお囃子を聴くと、
ああ、夏だ、とぎゅっとなるのだから単純なものだ

これぞ思い出という特別なことが、そうあったわけでもないのに
夏の印象の、この密度というか、
熱と湿気のうえに感傷を塗り重ねた感じというか
切実な息苦しさは、どこからやってくるのだろう

 

わたしの仕事はというと、
先週あたりから、秋冬の発注に入っている
7月中旬から8月中旬にかけては夏休みの人が多いので、
もともとの納期が長くて8月下旬では間に合わない人たちに
オーダーを送るのは、今なのだ

とはいえ、いまから11月や12月のことを考えるというには、
あまりにも肌に触れる空気が7月
こればかりは、何年やっていても慣れない

ポンドが上がり続けているから、
オーダーの時期を分散できるのはいいんだけどねえ
違和感は拭えなくても、走るのみということか


あたりまえの感覚も失いたくないから
ある程度、想像できないことは、想像できないでもいいのかな

秋冬が迫ってくると思ってしまうと、気も急くけれど
そとは、笑ってしまうくらいに夏だし
心配しなくても、今年は、まだまだこれからだよ

 

 

ブラインドの隙間から差す、強い光に怯えながら
めいっぱい明るい色の服を着て、出勤
温度計は、36度をさしている

コンビニでポトフを温めてもらい、ホットラテも注文したら
わずかな距離を運ぶだけで卒倒しそうなくらいに暑かった
体を冷やしたくないから、年じゅうホットなのだけれど、
店員さんには酔狂な客だと思われたに違いない

まだ夏ははじまったばかりなのに、とは言うものの
もう、夏のはじまりがどこかなんて、
とっくにわからない

 

予約のお客さんを待つ時間
昨夜、偶然同じタイミングで届いていた、
三通の長いメールに返信を書きはじめる

親しい取引先の人たちからは、
仕事とプライベートを美しい模様に織ったような、
ところどころに写真が散りばめられたメールが届いたりする
それを読み返しながら、丁寧に返事をする時間は
短いメッセージのやりとりにはない贅沢なのだった


一通ずつ、文章を書いて
その長さに笑ってしまう
もらったメールよりは、それでも短いんだけれど、
こちらもちょっとしたエッセイみたいだ

全部を書き終わったときには、
一時間の枠がすでに終わっていた
待っていたお客さんは、結局来てくれなかったし
その後の連絡にも返信はなかったけれど、
こういう時間が過ごせたなら、まあ、いいかも

毎週、それも何度も起こることもある、こういう出来事を
なかったことにするのはけっこう難しいけれど、
虚無感は、ないならないほうがいい

 

夏の新潮文庫のラインナップを見ながら
勿論そこにはない、サローヤン 『ママ・アイラブユー』のことを思い出し
勢いをつけるようにして、本棚から取ってくる

中古で買った新潮文庫サローヤンは、
『パパ・ユーア クレイジー』の方は頻繁に拾い読みをする一方
こちらは勇気が必要で、あまり開かない
内容もだけれど、なにより、見返しに前の持ち主の走り書きがあり、
それがとてつもなく重たいのだった

“NYでの夢を思いだしたくて
弱さに甘えてしまいたくない”と結ばれた長い文章
昭和62年と日付が入っているけれど、
彼女は80年代のニューヨークで、どんな夢を描いたのだろう


初めてこの本を開いて、これを読んだとき、
わたしは旅先のペンザンスからロンドンへ帰る列車のなかにいた
2013年、大学での勉強に疲れ果てていたわたしにとって、
その26年前にある女性が残したこの言葉は、
正直なところ、あまりにも強く、ぎょっとするものだった

わたしも甘えたくない、と、
共感というより焦りに似た感情を覚えた
わたし自身が、そのとき、全身全霊で夢を追っていたからだ


京都に戻り、店をやっている今は、
あの頃のような感覚は、もうない
けれど、わたしはわたしなりに、夢の続きにいるのだと
自分の店のささやかなきらめきを思う

言葉の感じかたは変わるのだな、と
見返しに並ぶ文字列をひさしぶりに眺めて、しみじみ


“ニューヨークとは離れたところで暮らすことになっていたとしても、
この痛みを麻痺させてくれるような夢を見せてくれるような何かが
彼女の人生にすこしでも多く散りばめられていればいい”

そう、11年前のこのときに書いたけれど
今も、ほんとうに、そう願っている

 

なぜか台湾で買うことになった、キャンプマグとともに
店の営業を再開した、今週

スピーカーを繋いで音楽をかけ、
床にさっと掃除機をかけて、窓のブラインドを上げる
ジュエリーケースの中を整えてガラスを拭き、
傘立てと荷物をドアのそとに出したら、深呼吸

一連の動作の時間は、店と自分を整えているようでもあり
やってくる三日間に願いをかけるようでもある


夏至が過ぎて、あっという間に半年の終わり
今週は慌ただしかったけれど、水曜日に神社へ行って
家族分の人形に名前を書き、茅の輪をくぐってきた

夏至には苺のケーキを食べ、月末には水無月を食べるわたしに、
恋人は、京都ってだけでも行事で忙しいのに、と言って笑う
たしかに、食べるものに忙しいうえ、
明日から一応京都は祇園祭と考えると、可笑しい

日がすこしずつ短くなっていく、これからの半年
どうか、みな健康でありますようにと、
今夜、小川を流れたであろう人形に思いを馳せる

願う、というのは、わたしには必要なことだ
まさに、気持ちが健康でいるためにね

 

なかなか外に向かっては言いにくいことだけれど、
今年に入ってから、わたしの店の状況はほんとうに特殊だった
実は円安や仕入れ云々以前の問題で、店に振り回されていたし、
いちいち傷ついてしまう自分に嫌気もさしていたように思う

けれど、こうしてすこしだけ離れてみると、
店にこういう時期があることも、それに自分が疲れることも
仕方ないかな、と割り切れる気がするから不思議だ

今は、ここにあってくれるものと、自分の信条を大事にして
自然にいられたらそれでいい
そう、思っていたい

 

4泊5日
台湾での逃避行が、終わった

台北、そして、台南を
湿気と夕立のなか、あちこち歩き回った
本屋を巡り、美術館へ行き、お茶を飲み、
自分のための買い物をして、疲れたらまた本屋
そう書くと、すごく目的があったみたいだけれど、
実際は、その合間の散歩がメインイベント

ほんとうに、なにを書いても説明にならなそうなくらい、
特別なことをしない、気ままな旅だった


なによりも印象に残ったのは、
毎夜、ホテルの部屋でひとり食べた豆花
シロップに、豆乳を固めたものとお茶のゼリー、
それからゆでたピーナッツが入っている
近所の店でテイクアウトして冷蔵庫に入れておき、
お風呂上りに食べるそれは、この世でも指折りの美味しさだった

部屋ではテレビは一切つけずに、
本を読んだり、ただぼうっと夜の景色を眺めたりした
時間は、いくらあっても足りなかった

 

椰子の木やブーゲンビリア
街なかにふと現れる寺院
積まれたスイカとドラゴンフルーツ

どこかから漂う八角の匂いと、
ずいぶん増えたコーヒースタンドの匂いに
ざあっと雨が降ると、公園の濃い緑の匂いが重なる
街に慣れれば慣れるほど、
足し算のように、感じる香りが増えていく

夜になると、人のざわめきはより大きくなって
道路ではクラクションが鳴り響く
赤いネオンが光り、原付の群れが走り抜け、
あちこちのテイクアウトの店には列ができている
台北は、どこまでも続く祭りのようだった


雑踏のなかには過去も未来もなく、
わたしの意識などかき消される気がした

見たいものを見ていただけといえば、それまでだけれど、
欲しかった、鮮やかな非日常がそこにあった
帰ってきてみると、音も光も匂いもなにもかも、
熱風みたいに自分の中を吹き抜けていったと感じるのは
やっぱり、行き先が台湾だったからなんだろう

 

ここまで、すべてから逃げるという心持ちで、
旅に出たのははじめてのことだったし
こんなに旅を心待ちにしたのも正直はじめてだった
だから行くまえからちょっと恐ろしかった
だって、そのまま逃げ切れるわけじゃないからさ

でも、帰ってきてみると、
大きな声で叫んで、思う存分泣いたあとという感じで
ぐったりとしていながら、妙な爽快感がある
自分でもこういう気持ちになるとは思わなかったから、
旅には出てみるものだなあ、と、いまさら


明日から、いよいよ、
元通りの生活に戻る

だけど、今のわたしには、この旅の記憶があるから
しばらくは、逃げることを考えなくてもいい

 

ひとりでは初めて、
台北に来ている

喧騒に、ひとり置いていかれて過ごす
それだけのための旅


軽いものをとおすすめを聞いて頼んだお茶と
想像以上に美しくて驚いたゼリーとともに
スコールのような雨が過ぎるのを待つ

最初の一杯を教えてくれた店員さんの優雅な所作を、
なぞるようにして動いてみる

台湾茶の小さなカップは、
繊細で、指先に心地いい


お茶には、“冬片包種”という名前がついていて
緑茶ベースで、フレーバーが“梔子花、鹽奶油、蘆筍汁”
英語表記ではGardenia、Salted Butter、Asparagus juiceとあり
驚いたけれど、青くすっきりした香りと味で美味しかった

試してみないとわからないことが
そこらじゅうに転がっている
気に入ったものを飲みつづけたり食べつづけたりするわたしでも、
きょうはいいでしょう

 

中山駅の近くには、
新しい本屋兼カフェがいくつもできていた
一軒一軒、時間をかけて巡り、
台湾の言葉がわからないなりに、何冊かの絵本を買った

地下の、誠品R79という大型の本屋は、
300mにわたって縦長に店が続いていて圧巻だった
店内はどこへ行っても、
置いてあるベンチや椅子に座って本を選んでいる人がいて
その気楽さと豊かさが眩しかった

本屋には、余白がある
記号としての、情報としての本を超えていく、
記憶を厚くする余白


じっとりとまとわりつくような湿気と、
亜熱帯らしい街路樹
ああ、台湾だ、と瞬きをするたびに思う

軽やかな服装で足早に歩く人たちを、
わたしは、ただ眺めるだけだけれど

ちょっと間借りさせてもらうような気持ちで
ここでの時間をおおらかに使いたい