2019年のファイルのなかに
詩画集の一頁を開いた写真を見つけた

ドミニク・ゼルフュスの絵と
パトリック・モディアノの詩
ストックホルムのModerna Museetで
この本を買って、すぐに開いたのを覚えているから
たぶんそのときのものだろうけれど
なぜ、この一篇だったのだろう

“In that small town on a distant border
I arrived at the end of myself”

過去の自分は、近いようでいて遠い
それでも、いまの自分の感覚で、
このフレーズに親しみを覚える


時とともに濃くなる記憶はたしかにあるにせよ
基本的に、記憶は薄れていくものだということを
かつて居た場所について考えようとすると、実感する

自分自身にとけるようにして、
もうからだの一部になって連れて歩いている記憶でも
ときどき水をやらないと、
末端の元気がなくなってしまう
その存在が大きくなるほどに、維持するのは難しい

そのことがわかっていたから、
過去のわたしはその時々にたくさんのものを残した
なんでもない一枚、一フレーズが、
未来で、記憶に与える一滴になり得るということを
知っていたし、今も実感しているから、
こうして懲りずに記録を続けているんだろう


大きなものを生まないわたしは、
自分のためにずっとこういうことをやっていて
だけど、最近はときどき、仕事や趣味で
それを明確にほかの人に向けて出す機会がある

ときどき、思わぬところに流れていく
それ自体は、まあそういうものなのだろうけれど
やっぱり、ちょっと不思議

 

きのうときょうは、店の仕事は休み、
いろいろなものを読んだり、書いたりして
小さな種のようなものをつくっていた

自分自身のつづきを生きるというだけのことが
ときどき、本当にむずかしく感じる
それを率直に、飾らずに表現したいのなら、尚更

だけど、何年か経てば、
これも守りたい記憶になっているのかもしれない
たとえばカフェで、まったく知らない曲を聴きながら
まっさらな紙に向かうということだって、
偶然が重なってこうなっているのだから


すっかり暗くなった帰り道
白猫が、目の前を横切っていった
一瞬のできごとだったけれど、
美しい残像が、まるで光のように残った

明日からは、また店関連の仕事に戻るけれど
きょうみたいな時間、自分自身のための場所を
頭の隅に残しておきたいと、思う