静謐な佇まいに惹かれて手に取った
ハン・ジョンウォン『詩と散策』

驚き、という表現が正しいかはわからないけれど
この本に出会って三日、
消化しきれない感情が、ふつふつと湧いてくる
本当に心を揺さぶられるものと出会うと、
狼狽えてしまって、説明ができなくなるのだね

瞬間を、変化していく自分の一片を
詩人たちとともに鋭くとらえていく
その静かな言葉たちの、なんと美しいことよ


著者の表現に自分を重ねるなんて、
不躾で、厚かましいことだとわかってはいるけれど
わたしは、こんな風にありたいのだ、と思う

記憶を携えて、幻想に守られて、現実と向き合って
日々の些細な波を、反射する光と生まれる影を、
暗い海から聞こえてくる波音を
ひっそりと、正確に、言葉にしたい
誰にも届かないとしても

そして、自分の言葉の限界、想像力の限界に立ち向かうために
わたしには、他者の力を借りて自分のそとをすこし見られる、
こういう本が必要なのだった

“真実に目を背けず向き合うためにも、
自分だけの想像を秘めておいたほうがいい”
そう囁いてくれる人が、必要

 

違う人に違う人に違う人になっていくあいだ、私はただ存在する。
散歩を愛し、散歩の途中で息を引きとったローベルト・ヴァルザーもこう言っている。

わたしはもはやわたし自身ではなく、ほかの人間であり、そしてまさにそれゆえにいっそう、わたし自身なのでした。
ローベルト・ヴァルザー「散歩」(『ローベルト・ヴァルザー作品集4 散文小品集1』)


ハン・ジョンウォン「散策が詩になるとき」より

 

きょうは、仕事の打ち合わせがあって
ちょうどさまざまなことを考えていた

わたしはわたし以外の人から、いったいどう見えているのだろう
好きなことを軸に生活をしている、
あるいは思うままに生きているというふうに見えるとしたら、
それはいったい、どうしてなのか
誰かが投影したいわたし、誰かが聞きたい言葉は、どういうものなのか

どの部分をどんな風に言葉にすれば、
わたしを貫くものの機微を、重ねた時間の陰影を、
多少なりとも表現することができるのか

他者にも自分自身にも正直であることと、自分について話すことを
なぜ両立しようなどと思うのか
そんなことをしても、いちいち傷ついたりして終わるだけじゃないのか

誰かの解釈、想像のなかにあるわたしは、
そもそも、わたしなのか

 

諦めないということは、むずかしい
だけど、ときには誰かの言葉の力を借りて、
絶えず変化しながら、諦めずに考えていたいと思っている
答えが出ることはなくても

ハン・ジョンウォンのエッセイでわたしが触れたのは、
なにより、考えることを諦めない、
透き通るように純粋な意志なのかもしれなかった