編み物のクラスのため、出かける
普段は月に一回なのだけれど、
先月ぎっくり腰で出られなかったので、振替

首まわりを全部編み直した姪のセーターを先生に見せ、
よく頑張ったねえと労ってもらう
いくつになろうとも、どんなに些細でも、
時間をかけてやったことをわかってもらえるのは、嬉しいものだ


きょうは振替だったので、いつもの定期クラスと面々が違い、
ちょうど編み方を日本式から海外式に変えたばかりだという方がいた
わたしは、逆に日本式で編んだ経験がまったくないので、
その方への先生の説明は、なにもかもが新鮮だった

情報が編み図に盛り込まれている(らしい)日本式と違って
海外のパターンでは、図はあくまで補助で、
基本的には、記号の混ざった文章を読んで編んでいく
日本のように、平面を図の通りに作って組み立てることもあるけれど
筒状に編めるものは大抵そうするので、輪針を使うことも多い

どっちがいいとかじゃないけれど、文章は立体に強いから、という
先生の言葉を、噛みしめて、反芻する

派生させた考えを頭のなかでふわふわさせていたら、べつの方が、
文章パターンは想像ができないときもあるけれどとにかく編み続けるのよね、
信じる者は救われる、と言ったので、声をあげて笑った
たしかに、編み物においてはそう

 

大学の、Sociolinguisticsの授業で、
言語が思考と感性に影響する度合いについてディスカッションをしたとき
強い形のlinguistic determinismがたとえ否定されていようとも
わたし自身は言葉なしには、考えることも、感じることも、
少なくとも完全な形ではできないと思ったことを、よく覚えている

わたしだけが違う言語を母語としていた教室では、
とくにそう意識しやすかったんだろうけれど
いずれにしても、わたしがそれなりに強く、言語の力を信じているというのは確かだ
そうでなければ、こんなに外国語に時間は使えない


だけど、それから、さまざまな言語との関係が深くなるにつれて
言葉はあまりにも不完全だということも、強く感じるようになった
だからこそ、純粋に言葉が思考や感性を生むと考えるのは危険だ

たとえば文章を書いたとして、
編み物のように、その通りの成果物ができあがるわけではないし
そのうえ欠けた部分は、意識することもされることもないまま、
ただ想像に委ねられて埋められたりもする
そういうものを自分の外に出して、誰かになにかを伝えようとしたりするのだから
まあ、一筋縄ではいかないに決まっているのだった


ちょうど今読んでいる、復刊された多和田葉子の90年代のエッセイにも
言語と感性、考えることのつながりを感じる文章があちこちにある
そして、言葉の欠けた部分を、強く意識する一節も

 

言葉は穴だらけだ。日本語でも他の言語でも、外から眺めてみると、欠けている単語がたくさんあって、どうして、こんな穴あきチーズを使ってものを書くことができるのだろうと不思議になる。もちろん、いつもその言葉だけ使っていれば、そんなことは気にならない。穴は、外部に立った時にしか見えない。
多和田葉子『カタコトのうわごと』所収 『「ふと」と「思わず」』より)

 

外国語と関わることの、ひとつの意味は
その穴がいかに多いかを、身をもって感じられることなのかもしれない
言葉の役割を大きく見積もって、その力を信じていたとしても、
そもそもが不完全なのだと認めること

それでも、わたしの場合、
めげずに言葉を使い、そのうえ新しい言語を得ようとするのは
やっぱり、できる限り、自身を複雑にしていきたいと願うからなんだろう


と、行くあてのない話になったところで
今夜は、編むことに戻ろうか

それにしても、こんなことを、
こうして思いつくままに書き散らかしてしまうあたり
わたしも、まだまだ懲りないな