初めて入ってみた、カフェで
ジョン・バンヴィル『海に帰る日』を、読み終える

ようやく、という感じ
さらりとした手触りなのに、
読む時間が永遠にも感じるような、中々重たい一冊だった



思い出に生きる、初老の男
一文も見逃したくないと思うような、豊かな、正確なことばで
絵のような回想が、つづく


自分の頭のなかのこの家のひな形が―現実の家に合わせていくら修正しようとしても、いくら抑えつけようとしても―何度も繰り返し浮かび上がってきた。あらゆるものが少しずつずれ、すべての角度がわずかずつ狂っていた。階段は思ったより急だったし、踊り場は狭苦しく、トイレの窓は道路に面していたはずなのに、実際には裏の畑に面していた。現実が、鈍感で無神経な現実が、わたしが覚えていると思っていたものをつかんで、揺すぶり、本来の形に戻そうとした。わたしはあやうくパニックに陥りそうになった。なにか貴重なものが溶けて、指のあいだを流れ落ちていくような気がした。にもかかわらず、結局は、どんなにやすやすと流れ去るにまかせてしまったことか。過去は、現実の過去は、わたしたちが思っているほど重要ではないのだろう。(149-150頁)

これだけの描写がありながら、印象が混沌としているのは
そもそもこの人物が、そうだからだ

自分の一部をなんとか何者かにしていた、妻を失って
彼は“唯一可能な時制である過去”へ、逃げ込んだ
けれど、過去の情景、というのは
いつでも優しいわけではなく、いつでも正しいわけでもない

現在から逃げながら
崩壊の縁にある自己に向きあう
彼は、なんだかんだで真摯なのだった



現在が、生活が、日々が、
いま感じられる、ほとんど唯一の確かなものだとしたら
いずれ、そこに立ち戻るんだろうか
わたしも、そうだろうか

そんなことを思いながら、カフェを出て歩いているうち
なんだか、堪えがたい気持ちになって
駅の花屋で、ふわふわと柔らかな花を買って、帰った


“いずれにせよ、いま、わたしに残されているのは、
まさに知るという問題である。
わたしたちは、もし自分たちでなかったら、だれだったのか?”

正直、認めたくないけれど、
そして誰にもこれは薦められないけれど
いまの自分には、必要な本だったかもしれないな、と
深夜になって、ようやく、思う



海に帰る日 (新潮クレスト・ブックス)

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