ヴィスワヴァ・シンボルスカ 『終わりと始まり』を
近ごろまた、毎日のように持って歩いている

『瞬間』が、枕もとに置いておきたい一冊なのに対して
こちらは、開くことがすこし怖い詩集
わたしにとっては、ずっとそう

それでも、何度でも開いて、
なんて雄弁な詩群だろうと思う
2012年に亡くなっているシンボルスカは、
いまわたしたちが立っている荒野を見ることはなかったのに
彼女が静かに発しているのは、まさに今への言葉だ


憎しみという感情を
“元気で矍鑠たるもの”
“有能で、のみ込みが早く、仕事熱心”と表現し
“人を虜にできるのは我を通す憎しみだけ”と言う

“それは美を作りだすことができる
真っ黒な夜、その炎の照り返しはすばらしい”
彼女は、そうあえて言葉にすることで、
まっすぐな辛辣さを失わずに立ちつづける

黒々とした気持ちを、
シンボルスカの詩は、縁からじわりと溶かしてくれる
そのきびしさと、透明な悲しみで

 

私はここにいて、見ている それがめぐりあわせ
頭上では白い蝶が宙を舞う
はためくその羽根は蝶だけのもの
わたしの手の上をさっと飛び去る影も
他の誰のものでもなく、まさしく蝶自身の影

こんな光景を見ているとわたしはいつも
大事なことは大事でないことより大事だなどとは
信じられなくなる

『題はなくてもいい』より

 

蝶や、空や、野の露
わたしにとっても、こういうものは
自分とその外を繋ぎ、価値基準を動かしてくれる存在だ
その美しさは、たとえば、巣食う苦しみからの単純な逃避、
あるいは現在や未来への希望を託す容れ物、という
明快な役割を与えられるものではなく
憂いや無垢が境界なく混ざりあって霞のように広がったなかに、
光の粒のように、ただ在る


彼女の詩を読んでいると、
こうしていてもいいんだ、と思う反面
こうありたいと、背筋も伸びる
シンボルスカが本当のところ、なにを思っていたのかは、
もちろんここにある文字以上のことはわからないけれど
それでも

とくにこの本の前では
わたしはわたしの話しかできなくて、自分の稚拙さにあきれてしまう
だけどもしかしたら、“わたしの話ができる”ということは、
詩が書けないわたしへの、なによりの救済なのかもしれない

 

夏至の近い今
仕事が終わった時間でも、空は青く、高かった
葉が箒のようについた銀杏の木のそばに座り、
また、本を開いた

“この恐ろしい世界には魅力がないわけではないし
起きるに値する朝だって
あることはある”

彼女の言葉を信じよう
すくなくとも、まだ、しばらくは