重なるにわか雨で
葵祭の行列が延期になった、きょう

一日の仕事を終えて、緑の葉が光る並木道を歩く
ずいぶん日没が遅くなり、
日々享受する景色は、きらきらと明るいものになった

雨上がりの土の匂い、夏の形に近づいている雲
葵の季節の瞬間瞬間は、
小さなわたしには抱えきれないほどに美しい


エミリー・ディキンソンの詩を、
頭のなかで反芻する
すっかり覚えてしまった一節

 

But were it told to me, Today,
That I might have the Sky
For mine, I tell you that my Heart
Would split, for size of me –

(F336 Before I Got My Eye Put Out より)

 

空も、草地も、山並みも
森も星も、水に来る鳥の動きも朝の琥珀色の道も
わたしのものだ、好きなだけ見ていいと言われたら、
その衝撃で死んでしまいそう
だから窓辺に心を置く、という風に、この詩はつづく

わたしは、太陽の下を散歩しているひとりで
詩人の本当の切実さは、永遠に理解することができないのかもしれない
だけどときどき、ささやかで果てしない風景のなかに身を置くと
この詩を暗誦しては、決まってふわりと訪れる不安の源を思うのだ

 

愛してやまない、スピッツの『流れ星』に
“本当の神様が同じ顔で僕の窓辺に現れても” という詞がある

はじめてこの曲を聴いたとき
僕の窓辺、という言葉を、何度も頭のなかで繰り返したことを覚えている
子どもなりに、腑に落ちたんだろう

たとえば、アンデルセン『絵のない絵本』でも
月が窓辺にやってきて、広い世界の話をしてくれる
そういう印象があるからか、わたしは、
自分の窓辺、というひとつのイメージを長年育ててきたような気がする

わたしは、わたしごと、あちこちに移動しながら
心のなかでは、だいたい、そこにすわっている
なんて内向きなんだとうんざりもするけれど、
わたしの想像上の窓というのは、自分を守るための手段だったし
いつでもひっそり外を眺めていたいという好奇心ゆえのものでもある


このふた月を共にしている、ハン・ジョンウォン『詩と散策』にも
近しく感じる窓辺の話があった

 

私はおとなになっても、いつも窓辺にくっついていた。窓から外を見るのが好きだった。誰かが私に近づいてくるのも、私を騙すのも、私から離れていくのも、すべて窓から見た。あるときは窓を閉めて怯え、またあるときは、窓を開け放して行き交う人たちに手を振った。つまり、窓を自分の心のように、自分の言葉のように、使ったのだ。

(『窓が一つあれば十分』より)

 

人は皆、それぞれに窓辺を持っているのだな、と
大人になってずいぶん長い時が経ち、
さまざまな土地で暮らし、さまざまな人と接して
そして、さまざまな言語で誰かが書いたものを読むようになった今
あらためて感じるようになった

そして、あまり開け放すことがないわたしの窓辺にも、
鳥のように飛んできてくれる人たちがいて
だから、わたしはわたしという形を保っていられるのだと
とくにこういう美しい日には、しみじみと思ったりする