冬晴れの伊豆へ

今年は仕事が思いのほか忙しいらしい彼も、
なんとか、一泊来てくれることに
一緒に青々とした駿河湾と、さまざまな形の岩を眺め、
宿のビュッフェで美味しいものを好きなだけ食べた
怖いくらいの贅沢だ

飛ばされそうな風も、砕ける波の飛沫も
海のうえで不規則にきらめく星も
いまのわたしには、非日常で
遠くへ来たのだな、と、あたりまえのことを思った

単純に、遠くへ行くこと、を
なにより欲していたのかもしれない

 

 

二日目と三日目は、ひとりに戻り
三島近辺を散策して、気ままに過ごした
ひとり旅が基本のわたしには、
いまは、このスタイルがちょうどいい

ベルナール・ビュフェ美術館は、貸し切り状態で
好きなだけ時間をかけて、画家の軌跡を辿ることができた
絵にしっかり近づけるところも、よかったな
黒くするどい輪郭線と、
キャンバスの無数の引っ掻き傷

ビュフェの図録は、すでに持っているので
印象的だったドアノーのポートレートの図録を買い、
街に戻って、カフェでゆっくりと読んだ
どこまでも静かな時間

 

 

翌日、美しい水辺を歩き、
雲ひとつない青空に白く浮かぶ半月を見上げながら
暗く、どこかノスタルジックにも感じる、ビュフェの絵を浮かべた

彼自身、そして時代の苦難を映したような輪郭線と引っ掻き傷は、
後年の彼にとっては、叫びの意味を完全に失って
様式のようなものになったんだろうか
そうだったらいい、と、思った

 

どこへ行ったとしても、
わたしはわたし自身から離れられないのだと、実感するだけだ
留学中から、もっと前から、そうして付き纏う靄は
いよいよ濃くなり、たくさんのうまくいかないことを前に
わたしの視界を奪ってしまう

それでも、旅は、
思索の時間と、移動ならではの強い記憶をくれる
それは、海岸でみつけた石や珊瑚、貝殻のようで、
わたしはその小さなかけらたちを、自分の引き出しにそっと仕舞って
ときどき取り出しては眺めている
実際に、そういうものを、
小瓶に入れて大切にしているように

 

 

今回の供はこの一冊
すっかり引き込まれてしまって、
ホテルでも、散歩中でも、ちょこちょこ開いていた

そういえば、三島の街なかでは、
ニコラス・スパークス “The Best of Me”のペーパーバックを片手に持ち
読みながら颯爽と歩く女性とすれ違ってうれしかったな
こういうことがあると、なんだか勝手に心強く思う

本も、ひとつの旅の記憶
一緒に連れて、愛すべき日常へ戻るのだ