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例年咲くのが遅い枝垂れ桜の花も、ほとんど散り
緑の葉がつぎつぎ出てきて
あっという間に、印象派のような色になった

その頃の画家たちみたいに
川べりのレストランで集まって、語らうことも
いまはできないわけだけれど

 

もともと店に出ていた、木曜は
店に出かけていくのが、精神衛生上、良い
ごく短時間でも、家ではできない仕事を片づけ、
自分が守ってきた空間を見回すと
やっぱり、がんばろうという気にはなる

きょうは、行きがけにスーパーで花を買っていって
新しく仕入れた花瓶の写真を、撮った
いまは店にだれも来ないわけで、
時間をかけてSNSに載せても、売上には当然ならないけれど
わたしにとっては、そういう問題ではないのだ

片方の手にデイジーの束、
もう片方には、母に買ってくるよう頼まれたレモン
さわやかな道中だった

 

内にもともとあった、漠然としたかなしさが
このところの渦のなかで、増幅された感がある
考えつづけて、いいかげん疲れているはずなのに
ますます考えを膨らませては、怯えて小さくなっている


ふと、リルケの詩を思い出す
大切にしている古い詩集の中の、一篇

“だれがわたしに言えるだろう、
わたしのいのちがどこへまで届くかを?
わたしはまだあらしのなかをさまよっているものか、
波となって池に住むのか、
それともわたし自身、あおじろく青ざめて
早春の寒さにふるえる白樺の木なのだろうか?”
(生田幸吉訳『リルケ詩集』より)

これは、わたしのかなしさの源流
生きものとしてのわたしの存在と
わたし自身の“ふち”についての詩、という気がする

 

こういう状況になると
書くことと、書かないことを
自分がどれほど選別しているかを、実感する
とくに、ツイッターを見てくれている人が増えて、
店でブログも読んでいますと声をかけてもらうことも増えてからは
書いてはいけないということの幅を、広げていた

でも、この日記はもともと
ツイッター以上に、どこへも気持ちが向かっていないものだ
そんな風に、ひっそりと、ただ何年も書いてきた


だから、心配をかけない程度に
こんなときでも、どんなときでも、書きつづけていきたい

たくさん、迷って
今は、そう思う