雨の降らない雷の午後
いつもより、すこしゆるやかな
でも、忙しい土曜日

結局、先週届いた大きな荷物は
全部は開けきれないまま、
先に、ほかの荷物を全部ほどいた

すこしずつ、溜まっている仕事を消化して
そうして、静かに営業をつづける
自分の小さな店で出会う人たちとの、やさしい時間を
そっと撫でるように、暮らす



昨夜から、まとまった時間をつくって
多和田葉子『地球にちりばめられて』を読んだ
読みはじめると、想像をはるかに超える作品で
本を置けなくなったのだった


コペンハーゲン言語学を学ぶ大学院生・クヌートは
テレビで、ある女性を見かける
彼女は、アジアの今はなき国からやってきた、いわゆる“移民”で
デンマーク語とノルウェー語とスウェーデン語を混ぜ合わせた、
北欧ならどこででも通じる、自作の言語を喋っている

クヌートは、テレビ局に電話をかけ
彼女に会いに行き、そして、物語がはじまる


彼女の顔は空中にある複数の文法を吸い込んで、それを体内で溶かして、甘い息にして口から吐き出す。聞いている側は、不思議な文章が文法的に正しいのか正しくないのか判断する機能が停止して、水の中を泳いでいるみたいになる。これからの時代は、液体文法と気体文法が固体文法にとってかわるのかもしれない。僕はどうしてもこの女性に会ってみたい。会うだけではなく、できれば近くにいて、この人がどこへ歩いていくのか見極めたい。こんな気持ちになったのは初めてだった。(12頁)

昔の移民は、一つの国を目ざしてきて、その国に死ぬまで留まることが多かったので、そこで話されている言葉を覚えればよかった。しかし、わたしたちはいつまでも移動し続ける。だから、通り過ぎる風景がすべて混ざり合った風のような言葉を話す。(38頁)

やっぱり、わたしは
自分の来た道を振り返ったんだろう
スウェーデン語と同時に、フィンランド語も学んでいたわたしは
フィンランド人の話すスウェーデン語に、
すこし似た言葉を話すらしい

わたしも、国境を越えて、風のような言葉を操って
そして、どこまでも旅をしたいのだ



言葉の持つ、意味
人間のバックグラウンド、アイデンティティ
言語とむすびつく力の、底知れぬ強さ
それを意識して、ときには使いこなし、ときには翻弄されて
それでもなお、越境していく人間の、かろやかさ

ディストピア小説という側面も持った作品だけれど
現実と虚構の境界を漂って
純度の高い“言葉”を、浮かび上がらせている
わたしたちは誰なのだろう、という問いかけが、くっきりと残る

あまり書いてしまうと、
これから読まれるかたは、おもしろくなくなってしまうので
こういう歯がゆい説明しかできないのだけど
言語についての考察を、小説に大胆に織り込んだ、
最初から最後まで本当にワクワクする、すばらしい作品だった


もしかしたら、今年いちばんの一冊
多和田さんの数ある本のなかでも、最高の一冊かもしれない

あした、東京へ向かう新幹線のなかで
もういちど、読もうと思う


「君は仏教徒なの?」
「違うわ。わたしは言語学者。」
「それって宗教だっけ?」
「違うけれど、でも言語は人間を幸せにしてくれるし、死の向こう側を見せてくれる。」(77頁)

そう、わたしの神さまも
たぶん、言語だ


地球にちりばめられて

地球にちりばめられて