17時をすこしだけ過ぎて
予報にはなかった雷雨が、近づくころ
空白のような時間が、突然、降ってきた

積み上がっている、発注やら、メールの返信やら
もろもろの仕事を脇に置いて
しばらく、本のつづきを読むことにする
グレアム・スウィフト『マザリング・サンデー』

イギリスの作家の新刊を読むことも、仕事と言えなくもない、と
誰に対してでもない、苦しい言い訳をしながら
目下夢中になっている本を開くことができる、というのも
この仕事の、特別よいところだ
もっとも、なかなかそんな時間は持てないわけだけれど



1924年
第一次大戦の傷が、まだ乾かぬ頃のイギリス
当時メイドという職業だったジェーンという女性の
ある休みの日、“マザリング・サンデー”の数時間を、
精緻に描く、中編

読者は、わたしは、
描かれる数時間が、その後も70年以上を生きる彼女の
意識をすべて、それも決定的に変えてしまう、
真水にレモンを絞るようなものだったことを
読み進めて、知ることになる


あまり書いてしまうと、
この本のよさが流れ出てしまうような気がするのだけれど
ああ、あの日、あの数時間、というちりちりした感覚は
きっと誰にでもあるものだと思う

そのときいったい、自分の人生の何合目を上っていたのか
人生全体に対して、その時間がどんな影響を与えたのか
生きているうちは、わからないわけだけれど
意識の深い場所に、映像のまま保存されて消えず
落ちる影の濃淡、髪の一本一本の記憶まで、くっきりと残っている
そんな日は、たしかに存在するのだった

スウィフトが、ジェーンにすべてを語らせるのではなく
語り手をべつに用意している理由が、わかる
こういう特別な日を軸にして広がっていく、
人生の途方もなさ、ばかばかしさ、恐ろしさ、それから愛しさは
全体像を知っている、神様の視点でないと、表現ができない


突然で意外な自由の感覚が体にみなぎった。わたしの人生は始まったところだ、終わろうとしているのではない、終わったのではむろんない。この理屈に合わない、包み込んでくるような裏返りを、彼女は生涯説明することができない(説明を求められることもない)。まるで今日という日の裏表がひっくり返ったような感じ、今あとにするものが、一つの屋敷の中に封じ込められ、手が届かなくなり、葬り去られるのではないという感じ。なぜかそれは屋敷の外へ溢れ出てきて、今呼吸しているこの空気と混ざり合っている。これを彼女は死ぬまで説明することができないし、また、ほどなくそうなるように、たとえこの日が本当にひっくり返ってしまったことを知るに至っても、この感覚が減じることはなかった。人生はこんなに残酷になることができ、けれどもそれと同時にこんなに恵み深くなることができるのか。(99-100頁)


ジェーンほど、ドラマチックではないにせよ
わたしには、わたしの、こういう日がある
2010年7月10日
ロンドンに住みはじめた日で、
その後それなりに長くなるロンドン生活を通して
いちばん暑い日だった

蒸し風呂のような地下鉄、唐突な移動遊園地、
ラッセル・スクエアの緑をすり抜ける、ダブル・デッカーの赤
道に放り投げられる煙草、西陽に向かって歩くひとたちの輪郭

いまでも、わたしは
そのくっきりした面影を連れて、歩いている
もしあの日がなければという、仮定を内包して
あの日が、わたしのこれまでに存在していることに、畏怖の念を抱いて

わたしは、ちゃんと語る言葉をまだ持っていないけれど
人生は、もしかしたら、そういうものなのだ



そんなことを考えて、読み終えた本を置いた
雨はいよいよ激しくなり、
スピーカーから流れるエリオット・スミスは、
すっかりかき消されている

大きな窓をすこしだけ開けて、雨に触れた
いま、ここでこうしていることを
あらためて、不思議だ、と思った

忘れがたい、
暗くて美しい、夕方



マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)