灰色に曇った、夕方
灰色の室内から、気分を変えるべく、外へ

晴れた日の散歩は、もちろんよいものだけれど
暗いこういう日に、ほとんど人のいない道を行くのも
それはそれで、いい


落ち葉の香りのするベンチに座って
しばらく、本を読む
ノーベル文学賞を受賞したばかりの、カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロ
陶酔のない、控えめで、理知的な文章が好きだ
ときどきシニカル、ときどき温かなユーモアを織り込んで
エピソードが積み上げられていく

彼の本は、長編では『日の名残り
短編も合わせると『夜想曲集』が、いちばん好きで
この二冊は、繰り返し繰り返し読んでいる
『わたしを離さないで』なども、忘れがたい本なので
なかなか、選ぶのは難しいのだけど


ここへ来たのはそういうわけ。ゾーニャ、見てごらん、とティーロは言う。あの丘を。なんて美しいんだ。ね? 休暇にこんな場所へ来られて、私たちはなんて運がいいんだ。ここの丘は、エルガーを聞きながら想像していたよりずっとすばらしいじゃないか。そう思わないかい? 聞かれて、わたしはまた怒りましたよ……たぶん。こんな丘のどこがすばらしいの? こんなのは、わたしがエルガーを聞いて想像する丘じゃない。エルガーの丘はもっと壮麗で神秘的。ここにあるのはただの公園よ……。(『夜想曲集』所収 『モールバンヒルズ』より)

どこまでも前向きで、ものごとの欠点を見ようともせず
幸運だ、という言葉を繰り返す夫に
苛立つ妻の言葉が、イガイガと喉を下りていく


自分は幸福だ、と
繰り返し思い直すことに、なんの意味があるだろう
愛も、誓いも、名声も、才能でさえも
一瞬で過去のことになってしまうのに

けれど、そういう霧のような虚無のなかに
ぼんやりと、未来の輪郭が見えたりする
遠くの、一隻の船のように


ぼうっと孤独な、ベンチで
ゆるやかに繋がった、『夜想曲集』の5つの物語に
そんなことを、思った