ロンドンで読み始めた、
丸谷才一編著『ロンドンで本を読む』
ようやく、読了

読み終わるのが惜しくて、
後半は、一本ずつ、時間をかけて大事に読んでいた
書評集というジャンルなので、小説などと比べづらいのだけれど
最近ではちょっとこういうのは他にないというくらい、
最初から最後まで、思い切り愉しみつづけた本だった


この本で、丸谷才一が書いているのは
『イギリス書評の藝と風格について』というまえがきのような文章と
それぞれの書評に寄せた、各一ページほどのコメント
ほかの部分は、丸谷氏が選んだバラバラの書評を、
バラバラの訳者が、訳している

それがもう、とにかくすべて毛色が違い、どれもおもしろいし
最初に置かれた丸谷氏の簡潔なコメントも、よいガイドになっている
そして、この一編のまえがきが、すばらしい
イギリスの書評文化を端的に説明し、かつ読者に興味を持たせる文章
価値体系を、大きく、かつさっぱりと表現している


しかし紹介とか評価とかよりももつと次元の高い機能もある。それは対象である新刊本をきつかけにして見識と趣味を披露し、知性を刺戟し、あはよくば生きる力を更新することである。つまり批評性。読者は、究極的にはその批評性の有無によつてこの書評者が信用できるかどうかを判断するのだ。この場合一冊の新刊書をひもといて文明の動向を占ひ、一人の著者の資質と力量を判定しながら世界を眺望するといふ、話の構への大きさが要求されるのは当然だらう。(13頁)

近頃ならサルマン・ラシュディデイヴィッド・ロッジやアニータ・ブルックナーも上手だし、以前だったらグレアム・グリーンイーヴリン・ウォージョージ・オーウェル、エリザベス・ボウエンなどもさすがに読ませた(グリーンのものは前川祐一訳、オーウェルのものは小野寺健訳があるはず)。彼らの書評は、いはゆるジャーナリスト批評家のものとくらべていっそう趣向に富み、話術が奔放で、目鼻立ちがくつきりしてゐた。義理で書いたり、小遣ひかせぎだったり、事情はいろいろあるかもしれないが、藝談や随筆には決してならず、しつかりした批評性を備へてゐるし、形も整つてゐた。小説の勘どころを押へてゐることは言ふまでもない。(6頁)

わたしも、Guardianなどの書評を読むのが好きだし
いまでも、イギリスの書評にはよいものが多いけれど
このまえがきに並ぶ、そうそうたる名前を見ると
タイムスリップしてでも全てを読みたいなと、願うほど
本当に、こういう小説家たちが書評を書いていた時代があったのだな


けれど、この本では実際には
小説家の書いた批評ばかりをとりあげているわけではなく、それがいい

とにかく多彩で、どれもさまざまに趣向が凝らされていて
評者本人の分析を堂々と披露しているものもあれば
これぞ書評という感じの、完璧な紹介になっているものもあれば
これは後半はエッセイなのでは?みたいなものもある

でも、どれも一定以上の噛みごたえがあって、
そして、しっかりとした味がする
尊敬をもって受けとるべき文章ばかりだ


わたしは、最初のジョン・ベイリーのクンデラについてのものと
プリチェットの『源氏物語』評を、とくに愉しく読んだ
誤解と思われる箇所や、これはどうだろうという点も、出てはくるけれど
それより何より、書評というのは読みものなのだなと、しみじみ思った

プリチェットのほうは、源氏物語の世界の移り変わりを
ジェーン・オースティンの世界から、
東洋版『嵐が丘』に移り住んだかのような感じ”なんて、言っていて
いやいや、こういうのはここでしか読めないなと、笑ってしまったよ
これくらいダイナミックでも許される、というのは
それだけの知が下敷きになっているということだけれど



まだまだ、それぞれについて書きたいことはあるけれど
わたしの力量では“おもしろかった”に終始してしまうので、笑
とりあえず、これでおしまい


そういえば、この中で書評の対象になっている本だけれど、
例えばクレランド、ドイル、イシグロ、プルースト
デュラス、ジョイスナボコフサリンジャー、カーヴァーなど
遠藤周作北杜夫村上春樹の作品の評もある
『ダイアナ妃の真実』やマドンナの写真集も混ざってはいるけれど
とにかく、スーパー・スタンダードという感じ

読んだことのある本も多くて
だから余計におもしろかったという部分も、あるのだろうけれど
書評はいわば紹介文なのだから、
内容を知らない状態で読んでみたかったという気もするなあ

この源氏物語評の原文が載っている
プリチェットの書評集を、注文したので
その本はそんな愉しみかたもできたらいいなと、思う