植物だらけの喫茶店で、カフェオレを飲みながら
ゲーテとカーライルの往復書簡を、ゆるゆる、読む

もう三週間くらい
ときどきこの書簡集を開けては、行ったり来たりしている
ちいさな愉しみ



ここに収められているのは
1824年から31年までの、手紙
ゲーテが1749年生まれ、カーライルが1795年生まれなので
それぞれ75歳、29歳のときに、文通を始めたということになる

カーライルは、ドイツの熱心な研究者でもあって
ゲーテを賛美し、その著作を訳したりもしていた
だから、カーライルの手紙は、いつも
こちらが気恥ずかしくなるくらい、愛情と尊敬に溢れていて
ほほえましく、二世紀近くも前の人なのに、近くに感じる

ゲーテも、親子以上に歳の離れたカーライルに
対等な愛情と尊敬をもって、接している
彼のことを、ものを書く人、あるいは読む人として、
本当に認めていたのだな


もちろん、書簡というからには、手紙の束なので
中身は挨拶や、返事が遅れた言い訳、
贈りものへの感謝、小包の説明などが、かなりの割合を占めてはいる
けれど、ふたりとも
ただの手紙では終わらない、示唆に富んだものを書いていて
ふとした文章で、立ち止まって、何度も振り返りたくなるのだった

ゲーテはすでにこの時、別の人との書簡集を出版しているので
もしかしたら、これが世に出ることを、想定していたのかもしれない


だがここに新しい、おそらく感じられたことのない、またおそらく言葉に出されたことのない考えが心に浮びます。それは、翻訳者は自分の国民のためばかりでなく、その作品の取られた言葉を話す国民のためにも仕事をするのだという考えです。実際、或る国民が或る作品から汁液と力とを吸い尽し、自己の内的生活の中にすっかり採り入れてしまい、もはやその国民はその作品にそれ以上の喜びを見出すことも、それからそれ以上の栄養を掬み取ることもできないというような場合は、人が考える以上にしばしば起るものです。特にドイツ人にこのことが起ります。ドイツ人は、自分に与えられた凡ゆるものをあまりに早く消化し、幾度も反芻することによってそれを変形し、それによって自分に与えられたものを滅ぼしてしまうのです。それ故に、ドイツ人自身のものが出来栄えのいい翻訳によって、あとから再び新しい生命を与えられて現われると、それは非常に有益なのです。(ゲーテよりカーライルへ 一八二八年六月十五日 ヴァイマル

たとえば、この部分は、ゲーテの翻訳観
この時代に、こんな風に考えて、言葉にできるものなのか

そして、そのすこし後の手紙でゲーテ
ここで書いたことを、そのまま詩にして、カーライルに贈っている
美しい、喩えの詩


かの日われ摘みにし野の花束
思い深く我家へ持ち帰りぬ。
あたたかき手より
花はみな深くこうべを垂れぬ。
われこの花束を清き水にさせば
なんという奇蹟か!
頭をむくむくともたげ
葉は緑に色づき
すべて生々と甦りたり
なお母なる大地にある如く。
とつ国の言葉となりしわが歌の妙なる響き
この花束に似たり。
(一八二九年七月六日 ヴァイマル

ゲーテという人物の力量を
この文章と詩だけでも、ひしひしと感じる
若いカーライルには、これ以上ない賛辞だったにちがいない



まだ、ヨーロッパ内での行き来もそれほど楽ではなかった時代
エディンバラ近郊と、ヴァイマル
ふたりは、どんな風に、見たこともない土地、
そして相手を、想像したのだろう

ゲーテがカーライルに、
カーライルが暮らす土地のスケッチの同封を、頼む手紙がある
カーライルは、友人が描いた絵をゲーテに送り
そして、ゲーテの部屋のスケッチがほしいと、頼む

そうだ、この時代には当然、写真もないのだった、と
いまさら新鮮に驚いてしまう
文章も、そして絵も、
いま想像するよりもずっと、大きな役割を担っていたのだろうな


往復書簡が、魅力的なのは
こうして、じわじわと想像が膨らんでゆくからかもしれない
その時代、土地、そして人と人へ
歩いて近づくようにして、思いを馳せることができる、ということ



今年は、書簡集やインタビュー集を
これまでになく読んだ、一年だった
人物、人そのものをとらえようとすることの、重さ
そして、その行為の、ある種の軽薄さを
時によっては、よいものと思えるようになったからだろう

来年も引き続き、こういうものも読んでいきたいな、と
抱負のようなことを言ってみたりして



ゲーテ=カーライル往復書簡 (岩波文庫)

ゲーテ=カーライル往復書簡 (岩波文庫)