バラを見に散歩に出かけ、
あちこちで咲くウツギに引きよせられる

なぜか毎年、待つことを忘れているけれど、
見かけるとはっとする花というのがある
わたしにとって、初夏のウツギはそういう存在だ

卯の花の匂う垣根に 時鳥、早も来鳴きて
忍音もらす 夏は来ぬ”

 

昨夜は、長い夢を見た
おそろしいけれど、目が覚めたときにはある種の爽快感がある、
実は大切ではないなにかを失うという夢だった

まるで短篇小説みたいだな、とおもしろくて
内容を細かく書き起こしたんだけれど、
結局、ぜんぶ消してしまった
あれはわたしの意識のなか、深くで起きた出来事で、
この世界に持ってきてはいけない気がしたからだ


吐き出せない気持ちを小箱に入れて沈めているうち、
ファンタジー、あるいは寓話のようななにかに変わる、ということがある
普段は見ないようにしているそれは、夢のなかでときどき開いて
わたしを、苦しめたり、ちょっと救ったりする

子どもの頃にはすでにこんな感じだったし、
“小箱”の話は20歳くらいのときに書いた文章も残っているから
これは、わたしが自分なりに身につけた、身を守る術なんだろう

持ってきてはいけない、と書いたけれど、
そんな風にして生まれたものだと思っているからかもしれないな
ここで開けてはいけない箱

 

さて、店のゴールデンウィーク期間も終わり
今年は曜日配列がよかったので、臨時営業日は設けず、
今週の3日間だけ、各時間の人数を増やす、という形で
どうなるかと思ったけれど、正直、丁度いい塩梅だった

店舗に立つ時間は、わたしにとって仕事の小さな一部で
裏方というか、そういうような時間のほうがずっと長い
そのことを考えずに全力で走りつづけるのは、ある意味楽なんだけれど
元気に立ちつづけることの難しさから、目を背けない、というのが
今のわたしの課題だと、ほんとうに思う

ひとりで仕事をするというのは
つまり、大体やってみなければわからない、ということでもあるね
今さらなんですけども


この5月は、いつになく
あちこち出かけたり、いろんな人に会う予定がある

仕事も詰まっているから、瞬く間に過ぎそうだけれど、
今だからできることを楽しめたらいいな

 

緑の絵具で勢いよく描いたような銀杏と、
海の絵に落ちる夕方の光

大きな北向きの窓と、通りの銀杏の木は
わたしの仕事場がある雑居ビルの、何よりの自慢だ
最初に見に来たのは7年前の1月で、
部屋はスケルトンで瓦礫の山、なにもなかったけれど
驚くほどに明るくて、光が美しい、と思った

窓のそとの銀杏が、春から秋までずっと鮮やかなことは
子どもだった頃から知っている
その日のうちに、入居することを決めた
これは、わたしがこれまでの人生で、
いちばん自分を褒めたい決断のひとつ

今これを逃さずにつかまえるべきだ、というような日が
ときどき、あるような気がしている
それからの未来をつくる日


去年から、事務所を借りてはいるけれど
わたしの店は、どう考えてももう手狭
ものがぎゅうぎゅう詰めで、わたしのデスクまで在庫でいっぱいだし
そもそも、誰も雇わずにひとりで経営しているなんて、と
いい加減心配されるような規模になっている

だけど、宝箱をひっくり返したみたいと言ってもらえる、
自分の小さな店をどこよりも愛している
売上のことだけを考えたら、実店舗は大きなところに移転するか、
むしろ閉じてオンラインに集中することを考えてもいいけれど
それでも、わたしはここにいたい

それは、自分の店ばかりじゃなくて、
入居する人たちが、付かず離れず、ゆるくつながっているような
この場所が、とても好きだからだ


こんな思いをするならもうなにもかもやめたい、というとき
足音や水音を聴いたり、誰かの顔を見たり、ちょっと雑談したり
わたしはそうやって、自分の内と外の均衡を保っている

わたしも、このビルの空間の一部になれたらいい
直接誰かの役に立てる可能性もあるけれど、
まずは、心地よいざわめきになれたら

と、きのうあらためて思ったんだよ
つまり、誰かが悲しいときには、
和らげるなにかになりたいってことなんだけど

 

 

最近よく聴いている、Charlie Cunninghamのこの曲
ちょうど、仕事と個人の中間の場所にあるなあと、迷って、
結局仕事場のライブラリにも入れることにした

いつも、越えてしまわないように、一線を探している
内と外の境界


自分を守る、ということの大切さが
ただただ身にしみるこの頃

わたしにとっては、音楽も、このビルも、
きっと自分を包んでくれる膜のひとつなんだろうな、と
ぼんやりと思ったりする

 

藤棚で雨やどり
きょうは、さすがに蜂も休みなのか、
ゆっくり花を眺めさせてくれる

公園では、近所の子どもたちが、
濡れないよう、藤の下に自転車を動かしていた
当の本人たちは、雨に打たれながらキャッチボール
なぜか、投げるときの掛け声が“まいどー!”で笑ってしまう


最近は、きょうみたいに雨の予報が出ていると、
しばらく耐えるように曇っていても、結局こうして降りはじめる
だからか、新緑がぐんぐん伸びてきれいだ

傘をさして、また店に戻る
春というよりは梅雨のような、灰色に霞む夕方

 

きのう、仕事場の小さな中庭に、
大家さんが、鳥の飾りがついたバードバスを置いていた
これどうしたの、と尋ねると、庭師の友達にもらったと言う
大家さんらしさ満点の経緯だ

ときどき来ているから、ここで水を飲んでくれるといいね、
でもガラス戸にぶつかったりしないかなあ、と
仕事の手を止めて鳥の心配をする我ら
7年の付き合いになり、いよいよ会話がおっとりとしている


大家さんは自宅にブルーベリーを植えているので、
鳥たちのあいだで評判になったのか、以前はよく食事に来ていたらしい
収穫ができないし、ご近所に迷惑もかかってしまうので、
今はさすがにネットをかけているとのこと

スウェーデンにいた頃、森でブルーベリーを食べ歩いていたわたしは
ちょっとだけ鳥に共感してしまう
いいなあ、自宅にブルーベリー

ブルーベリーの木は紅葉がきれいなんですよね、という
大家さんのふとした言葉に、心をつかまれる
赤やオレンジの、鮮やかなブルーベリーをかき分けて歩いた日々は、
こうしてわたしの中に眠りつづけるのだ、きっと

 

今週は、大きな箱4つに分かれて届いたマグカップの、開梱と検品
週末からは、オンラインでも注文を受けるので、
これをまた包んで、全国に送ることになる

デザインを考えさせてもらってから、6年という月日が流れて
そのマグカップは、うちでもイギリス本国でも、
押しも押されもせぬ人気商品になった
そのあいだに、作家さんは何度もわたしに相談してくれて
今はうちに作る分は、イギリスの店に並んでいるものとは微妙に違う、
うちらしいバランスを追求してくれている

最初は、各15点という、
信じられないほど小さなオーダーだった
それを一緒に大きく育てていけたことに、本当に感謝しているし
この2年ほどでますますクオリティが上がっているという事実に
わたしは驚くばかりです


マグにまつわるあれこれは体力勝負
何度やっても大変な仕事だけれど
作家さんの気持ちも、多くの方にこれを愛してもらっていることも
ただただ、うれしいから

今回も、わたしにできる全部で、
たくさんのマグを送り出すよ

 

桜の花がほとんど終わり、
わたしの散歩コースも、静けさを取り戻した

二日ほどすべてを霞ませていた黄砂も、
きょうは落ち着いている
今年は早くから咲いているシャガが、
まだしゃんとして、風に揺れていた

ほとんど誰もいない川べり
この辺りの水は、とくべつ澄んでいる


茶店でパフェとカフェオレを頼み
しばらく、静かに本を読む
この時間のために生きている、という気がする

Kindleにも、たくさんのタイトルが入っているけれど
やっぱり、どうしても紙の本が好きだ
ぱらぱらと頁をめくる、という点において
わたしにとって、紙はデジタルより自由だから

 

日々、仕事をしていると
どうしても、自分が削れていくような感覚がある

それでも、読むことで栄養を得て、
歩きながら思索することでそれを増やして
中身が流れ出しているような気持ちにならないように
そして、なにかを誰かのせいにしなくてもいいように
内側から湧いてくるものを育てて過ごしている


なんてことのないわたしだけれど、
自分自身を保つ必要はある
そして、それだけのことが簡単ではないのだ

本は考える力をくれるし、
いい具合にわたしを振り回して、しなやかさもくれる
いつでも


実際のわたしの身体は、しなやかにはほど遠く
両手も両足も痛いけれど
深く呼吸をして、新緑の季節を行こう

来週やってくる、雑事のことは
ひとまず、忘れて

 

 

抜けるような青空と、夏のような陽気
まだ花が咲いている川辺を、上を向いて歩く

明るい黄色の体をしたメジロが、囀りながら
ひょいひょいと桜の小枝を渡っていった
ブルーグレイの嘴はスズガモだろうか、
流れに逆らわず、揃ってゆったりと川の水にのっている

遠い空と、光が跳ねる水面
鳥たちの世界は、いつもグラデーションの中にあって
眺めることしかできないからこそ眩しい

 

きょうの分の事務作業を終え、カフェへ
半分の時間は、スウェーデン語で本を読み、
のこり半分は日本語で、読んだり、書いたり

今週から、月に一度のスウェーデン語の授業を再開した
といっても、先生と楽しく雑談したり、
本のわからなかったところを訊くくらいなのだけれど
それでも、ずっと続けてきた読書とポッドキャストに、
腰を据えて勉強する時間を加えるモチベーションにはなる

4年ぶりに会った先生は、変わらずほがらかな人で
ずっと早口で手を緩めない感じも、心地よかった
聞き取れない部分がもしあれば質問すればいいだけなので、
これくらいの気楽さとスピード感がちょうどいい


出会った頃には、京都に住んで5年ほどだと話していた先生も
もう、日本に来て10年になる
僕もスウェーデン語ほとんど喋ってなくて、忘れてそうだから、
辞書を横に置いておかなくちゃ、と言うので笑った
実際、わたしがわからないことは彼もわからなかったりもするけれど
調べて、わたしが納得できるまで、言葉を尽くして付き合ってくれる
いい先生だと、思う

彼は、この4年のあいだに転職して、
シフト制ではなくなり、以前のように平日には会えなくなったし
市内のちょっと離れた場所にある一軒家に引っ越した
それでも、授業を再開したいと相談したら、
快く、大丈夫、また行くよと言ってくれた

コロナの時間を超えて
こうしてまた会えるだけでもうれしいのだ、本当は

 

英語もそうだけれど、スウェーデン語も、
わたしにとってはもう日常に溶け込んでいる言語だ
毎日のようにニュースを聴き、本やオンラインの記事を読み、
取引先や友人へのメールを書く
何年もそれがあたりまえなので、
日本語の世界との継ぎ目はほとんどない

それでも、スピーキングは今年の頭にスウェーデンで、
仕事でというよりも、友人と話しているときに
ブランクを経て、自分の言葉に厚みがなくなったと感じた
つい同じ単語、同じ構文を使ってしまうことにがっかりしたし
自由なプライベートでこそ、反射的に使える語彙の大きさが
ほんとうに会話に直結するのだと気がついて愕然とした


だから、それをまあいいやと放っておきたくないし
自分を過信しないでちゃんと地道に積み上げたい
そのために時間をかけたいと思う

日本語でももちろんそうだけれど、
豊かな言葉が信頼を生むと信じるなら
いつでも、いつからでも、できることがある

効率はよくないかもしれなくても、
一歩一歩、そして長くつづけたい

 

もはや春を超え、初夏のような空気のなか
上着を脱ぎ、日傘を閉じて、
ほとんど人のいない桜並木を歩く

静かに咲く花は、ふわふわとあまりにも儚くて
迫力にも似た切なさがある
毎年見ていても、慣れることがない存在感

桜の写真にかぎって、
そこになにも写っていないように思えてしまうのは
美しさを留めておけないという焦りもあるけれど、
そもそもわたしが、記憶を花に重ねているからなんだろう


この季節には
なにもかもが、自分とは遠いところにあるような、
自分だけが冬のなかに取り残されているような気がする

一方で、何年かをヨーロッパで過ごしてから
春に抗えずに流されていくことを、
どこかで心地よくも思うようになった
図書館に籠って文献と向き合う、長いイースター休みに
強引にきらめきを与えてくれていたこの力よ


心が軋むわたしなどお構いなしに
有無を言わさずやってくる春
同じようで毎年違う、その横顔を
なかば溺れるようになりながら、たしかめる

いつかは、もうすこし、
この季節を越えることがうまくなったりするんだろうか

 

記憶が一年分増えるごとに
切実さが増すのでは重すぎるから
もうすこしは、軽やかに

今週は、仕事もプライベートも
なんだかんだで予定がパンパンになっているけれど、
合間にちょこちょこと出かけて、桜との思い出を増やしたい

ひととおり、店での事務作業を終わらせて
買い物に出かける日曜日

例年より二週間ほども遅れて咲いた白木蓮が、
足早に去っていこうとしている
いつもはもうすこし遅い枝垂れ桜は、
ソメイヨシノを待たずに、もう咲きはじめていた

紙みたいに白い鳥が、
ひらひらと飛んで橋を渡っていく
未だ、春の訪れを受け止めきれないわたしのことも、
軽やかに、越えて


キャラクターグッズの店で、
妹と姪の顔を交互に思い浮かべる
イギリスにいる姪は、とっくに小学生だけれど
あしたから、日本でも一年生ということになる

なぜかおみくじがついた鉛筆キャップや、
薄紫色でちょっとキラキラしている鉛筆削り
小学生のころ、わたしはこういうものが大好きだった
きっと、姪も好きな気はするんだけれど、
でも、妹はなんて言うかしらと、むずかしい

カフェで、珍しくゆずシトラスティーを飲みながら
本から目を離し、さっきのどうしようかなあ、とふわふわ考える
こういうので日々はじゅうぶんなのだ、きっと

 

 

さて、ちょっと唐突なむかし話
ずいぶん前に、Nikon FM3Aというカメラを買ったとき
実はもうひとつ、Contax Ariaという候補があった
当時、まだぎりぎり製造していたマニュアルフォーカスのカメラは、
たしかその2機種だけだったからだ

わたしは迷った末に選んだFM3Aをほんとうに長く愛したし
信じられないくらいに数多くの写真をFM3Aと、
最初に買ったF2.8のパンケーキレンズで撮ったけれど
それでも、Ariaはいつも、心のどこかにあった
そのカメラと、F1.4という明るい標準レンズとの組み合わせには、
どうしても、ほかにはない魅力があったから


その憧れだったレンズを
実は最近、長い時を経て、使いはじめた
Ariaにではなく、ミラーレス一眼につけてだけれど
レンズのリングをくるくる回してピントを合わせ、
泣いたり笑ったりしながら練習している

留学からの帰国後、わたしはフィルムカメラはほとんど使わなくなって
そのかわりにスマホで何十万枚という写真を撮ってきた
機敏なiPhoneのカメラを愛しているし、
心持ちは何で撮ってもほぼ変わらないと思っているにもかかわらず
それでも、また、レンズのリングを回してみたくなったのだ

1975年の発売で、
いわゆる“オールドレンズ”ということになるけれど
(しかも、わたしのレンズはいちばん古い部類のものだ)
やっぱり、無二のレンズだった、と言えるくらい
たくさんの写真をこれで撮りたい
遅れてやってきた青春のような、さわやかでおっとりとした時間を
このレンズと、カメラと、一緒に過ごしたいと思っている

昔の感覚を思いだしながら、新しいことを練習するのは
まっさらの紙に向かってなにかを書き起こしているような、
さっぱりとした、予測のできない気持ちのよさがある
それを大事にしたい


限りある時間を
なるべくゆっくり歩こう

さあ、新年度!