ビフォーアフター
新しい事務所を、静かに始動させた

写真ではほとんど見えないのだけれど
実はあちこちがボコボコ、汚れも目立っていた壁に
青みがかったやさしい緑の壁紙
一気に思い描いていた空間に近づいて、
好きな色というのは偉大だと、しみじみ思った

もう一面は、大きな在庫棚を置くし、
窓の近くでは撮影もしたいので白のままに置いておく
白を白と言えるかは別として(こちらも染みがあちこちにある)
とりあえずは様子見

あとは、賃貸用の剥がせるのりが、
どれだけもってくれるかだなあ
これも実験ということで

 

ストックホルムを13時に発ち
ヘルシンキ、羽田を経て、伊丹に着いたのは翌日16時
以前なら翌日午前には到着していたこのルート、
ヘルシンキからのフライトの長さに心が折れる

航空券や燃料費、宿泊そのものの値上がり
輸送費の高騰も、ヨーロッパのインフレも
零細輸入業には激しい向かい風だ
物価のこの上がり方は仕事外にも影響し、
今回は、夕食はほぼレストランではとらず
ないと困るコーヒーすら、買うのを躊躇うほどだった

それでも、どうするのが最善かを
自分で都度考えるほかないわけだし、
かつ、わたしは楽しい店を持ちつづけたいわけだから
より強い意志を持ってやるしかない
固いんだけれど、そんなことを思った出張だった

次は8月末
それまでにしっかり計画するぞ
まだまだ、これから


それにしても
帰国した翌日は丸一日開梱とディスプレイ
土日は休みなく店を開け、
きのうからようやく事務所のことをやっているのだけど
時差ボケ継続中で、昨晩などは1時間半睡眠
さすがに自分の体力が怖い

土日、楽しみに来てくださるお客さんたちに会って
元気になってしまったんだよねえ
楽しそうにしてもらえるのがいちばん疲れに効く
店をやっているかぎり、わたしはこんな感じなんだろう


しばらく、心は休まらなさそうだけれど
お祭りのようなこのときを、わたし自身楽しみたい

どのみち、ゴールデンウィークが終われば
すこし穏やかに、息をととのえるときが来るのだから

 

週はじめのストックホルム
超のつくレベル、と言ってもいい快晴

それなのに終わらないデスクワークにため息をつき、
ホテルの窓から、建物の狭間の細長い空を見上げる
ふと、自分のため息があまりにも、
絵に描いたみたいだったことに気づいて笑ってしまう

出張は発注や店舗のことなど、後半は仕事が増えるので
これはほんとうによくあることなのだけれど、
なにもこんな晴れの日に当たらなくても、ねえ


とはいえ、きょうは
新しい取引先がひとつ、決まった日だった
前々からものが気になっていた会社と縁があった、という感じで
あっという間に話がまとまり、初回オーダー

実は、彼らの真鍮製の花のお皿を長く備品として使っていて
しょっちゅう、販売はしていないのかと尋ねられていた
だからというわけではないけれど、
うちのお客さんには、彼らのものが好きな人がきっといてくれるはずだ

商品を見て、これはもううちじゃなくてもできる仕事でもいい、
まずはお願いしてみようと即決したので
メールを送ったあとで、そういえば通貨がポンドじゃなくユーロだ、
どこの国の会社だったっけ、とあらためて情報を見直すことになった
見切り発車もいいところで笑ってしまうのだけど、
それだけ気持ちに勢いがあるのだなと思う

はじめてのオランダの取引先
これからが、楽しみ


スウェーデンでは、大きくではないけれど、
着実にいい仕入れができているし、新しい出会いもあった
イギリス、デンマークでの分と合わせて、
これ以上望みようもないくらいだ

すこし間が空いても、なんでもないと思えたことが
実は、なによりの収穫じゃないかしら
わたし自身の持ちものは、簡単に崩れ去ったりしない
そういう気持ちになれたことが、なによりよかった

まあまあ、青空の日になかなか外に出られなかったりしても
これだけ大充実の出張になれば、それで

 

夕方、仕事先からの帰り道
古本屋の店先に、セール、1冊40クローナという紙が貼られていた
40といえば500円ちょっとなので、驚いてそのまま店に吸い込まれる
結局3冊を抱え、ホテルへの道を歩いた

昔、ストックホルムにまとまった期間滞在していたとき
その店で本を買ったことがある
ストックホルムの歴史の本と、カール・ラーションの自伝
そのときは、おばあちゃんが店番をしていて、
別の、店員さんではないおばあちゃんがなぜかレジ横の肘掛け椅子に座り
横からすべてのお客さんの買い物に茶々を入れていた

きょうのレジには、ふたりのおばあちゃんは居らず
きのうのことのようなあの記憶を、夢のようにも感じた
どこにも、どうしてセールをしているのかは書いていなくて
もしかしたら店がなくなってしまうのかもと気になったものの
そうだと言われるのが怖くて、訊くことができなかった


あの頃は、移転セールをやっていたほかの古本屋でも
山のように本を買い込み、毎日浸かるようにして読み耽っていた
気持ちとしては崖っぷちだったのだけれど、
あの日々は、今の胆力の基礎を作ってくれたようにも思う

そんなことを思い出していたら、
店のラジオから、Englishman in New York
当時カフェで聴いて、異国から来た自分を思った曲だ

I'm an alien, I'm a legal alien
今だって、わたしは、たいして変わっていない

 

 

ほんとうはいつだって不安だ
自分の仕事を誰にも求めてもらえなくなったら、
そして、自分が自分でなくなったら、と

だけど、だからこそ、
雲梯みたいに、自分の体のひとつ先を勢いをつけて掴めるように
わたしなりの経験を積んでいく
学生だった頃からずっとそんな感覚で、いつまで続くのかと思うけれど
とりあえず、行けるところまで


この出張も明日が最終日
最後まで晴れ渡るみたいだし、
明日はちょっと、自分のためにも時間を使おう

そう、なにより
3年半ぶりのスウェーデンなのだから

 

2020年2月以来の
デンマーク、そして、スウェーデン

なにから話したらいいか、わからない
とくにスウェーデンは、しょっちゅう訪れていたわけで
留学前から考えても、こんなに間が空いたことはなかったからだ

親しんだ土地、親しんだ言葉なのに
最初の晩は頭がまだついていかず、混乱してうなされた
こういう風になるものなんだなと、
自分が自分じゃないみたいで、不思議だった


そんな中、きのうは朝から、
ずっと一輪挿しを扱っているガラス作家さんのところへ
彼女は英語がほぼ話せないので、
デンマーク語(もしくはスウェーデン語)で通すしかない

まあでも、結果的に
荒療治のようになってよかったな
引っ込んでいた気持ちを、無理やり前に出して喋っていたら
あっという間に、ほぼいつも通りに戻った

お隣の陶器作家さんも加わって、
お茶とともに、ものづくりやわたしの仕事の話
やわらかく豊かな時間だった

 

 

そして、きょうは半分を休みにして
朝から、ルイジアナ近代美術館に出かけてきた
留学中はもちろん、仕事をはじめてからもたびたび訪れている
世界でもっとも好きな場所のひとつ

メモをとりながら、ゆっくりと展示を見て回り、
変わらない庭からエーレスンド海峡を眺める
建物はもちろん、雰囲気も、ほとんどそのままで安心したけれど
カフェのメニューからは、いつも頼んでいたビュッフェが消えていた
苦しい時代、何も変わらないというわけにはいかない

そとの気温は10度
肌寒く、海はほのかに霞んでいる
そういえば、はじめてこの美術館を訪れたのは、
イースター休みで、ルンド大学の下見に来たときだった
あのときもこんな天気だったなと、なつかしく思い出した


駅に向かう途中、並んでいる三角屋根の家々を眺めて
この美術館と、海が、すぐそばにある生活を想像する
わたしの人生は、もちろんここにはなくて
だから、無責任にただ羨ましくなったりするんだろう

無性にもっと海が見たくなって、
気がついたら、コペンハーゲンへ向かう電車を降りていた
この国、この街にとっては客人のわたしでも
仕事が詰まってさえいなければ、これくらいはできるのだ

 

 

その後、コペンハーゲンでの予定を終えた夕暮れ
デンマークスウェーデンの国境の橋を、電車で渡る
それこそ、これまでに何十回も渡ってきた橋

ロンドンもそうだけれど
風景が身体に馴染んで、歯を食いしばらずにいられる
言葉を吸い込み、息を思いきり吐いて、
軽やかに過ごすことができる場所に
やっと戻ってこられたのだ、と思った


もう明日には、移動しなくてはいけないけれど
ここでの感覚を大切に持っていきたい

ブランクも、葛藤も、勢いよく蹴飛ばして
どうか、このまま

 

晴れ渡ったイースター・サンデー
地下鉄を乗り継ぎ、キュー・ガーデンへ

昔、妹とふたりでも訪れたことのある場所を
4人になった妹家族と、5人で歩く
わたしは店をはじめて6年目、
姪たちはこの世界に来て6年目と1年目
妹夫婦は転勤でイギリスで暮らすことになり、わたしは出張
人生には、こういうことが起こるのだ


わたしの手を強く引っぱって跳ねる5歳の姪に注意すると、
彼女は手を離すまいと、余計に指先に力を込める
もうこんな力を出せるようになったのか、
つい最近生まれたばかりの気がするのに、と
あらためて不思議な気持ち

時間ははっきりと確認できる唯一の概念、というサガンの言葉を
ぼんやりと思い出す
たしかに、そうかもしれない

 

マグノリアの前で、思わず立ち止まる
大きな大きな3本の木が、それぞれの色の花をつけていて
その下は枝と花の影に守られているようだった

小さな姪を抱く妹の写真を撮ったり
大きな姪が欲しがったので買った、
にんじんのうさ耳カチューシャをつけた義弟に笑ったり
ほのぼのとした時間

大きな花びらがはらはら落ちるところを見上げ
落ちた花びらを拾い集める姪を追いかけた
彼女が差し出した2枚の花びらを、ハートみたいね、と言うと
大きさや色が揃っている花びらを懸命に探して、
ちゃんとしたハートを作り、渡してくれた


妹が、いつか走馬灯に見そう、と言ったマグノリア
もう一度、一緒に見上げる
わたしもきっと何年経っても、この木々を、この時間を
このときのわたしたちをありありと思い出すに違いない

一枚の絵のような枠に、なにもかもが詰まった、
美しい思い出として

 

イギリスでの一週間ももはや終盤
駆け回っているうちに、移動が近づいている

今回は、2日目から5日目の昨日まで、
約束が2件、3件という日が続いていた
ロンドン(と、ブライトン)市内は広く、移動時間もかかるので
絵に描いたようなバタバタ
お腹も壊しているので、中々にしんどい毎日だった


去年9月以来のロンドン
前回は、コロナ前から間が空いていたこともあって、
この街の変化が、ただただ衝撃的で悲しかったけれど
今回はすこし、冷静に見られている気がする

これからまた、きっと、何十回もここを訪れる
合う水も合わない水もあるけれど、さまざまに反応しながら、
わたしなりの居心地のよい場所と、
たくさんの新しいものを見つけていけるはずだ


まだうまく言葉にできないけれど
すこしずつ、進んでいく

ここで出会ってきたものを、積んできたことを、
過去に置き去りにしてしまわないように

 

羽田から15時間、東まわりに飛び
降り立った朝6時半のロンドンは、快晴だった

いつもの貸しアパートで、
スーツケースを開けて整理を済ませ
さっそく光のなかに出ていく
この町でのこの天気が貴重なことは、
わたしなりに、身に染みてわかっているつもりだ


用事を終わらせて、空いた14時までの時間
迷わず公園へ行くことにする
手元にある時間に合わせて、
散歩にいい緑地や通りを、瞬時に、自在に選べるのが
ロンドンのいいところだ

きょうは、プリムローズ・ヒルから、
リージェンツ・パークの西側まで歩くことにした
すこし余裕があるときの、とっておきのコース

 

 

リージェンツ・パークでは
水仙が、まだあちこちで咲いていた
春の訪れを告げる花

今朝は冷えたけれど、冬はもう去っているのだなと
きゅうに心ぼそくなって、
A・A・ミルンの詩を口ずさむ

‘She wore her yellow sun-bonnet,
She wore her greenest gown;
She turned to the south wind
And curtsied up and down.
She turned to the sunlight
And shook her yellow head,
And whispered to her neighbour:
"Winter is dead."’

この詩の繊細さがわたしは好きだけれど、
冬の澄んだ空気を味方のように思っているわたしにとっては
春の無邪気な恐ろしさを凝縮したような一篇でもある


春のリージェンツ・パークの記憶のなかで
わたしは、ほとんどいつも、ひとりだ
当然のことで、この季節、大学はレポートと試験の期間だから
友人とそとを歩くということが少なかったのだった

観測史上いちばん雨が降ったという暗い四月も
どこかが壊れてしまったような暖かさの四月も
思えばここで越えてきた
寮やアパートの部屋で、図書館で
そして、ときどき息を吐くために歩く、
大学からすぐのこの広い公園で


変わらない春の風景のなかに、きょうもひとり
池に潜る鳥たちを眺め、芝と泥の匂いを吸い込む

頭のなかに、風が通ったように感じるのは、
ここで過ごした四月の経験のおかげだろうか

 

その後、さっそく訪ねたのは、
ずっとお世話になっているディーラーさんご夫婦のところだった
アンティークについて多くのことを教えてくれるだけでなく、
いつも父母のように気にかけてくれる人たち

きょうはお母さんが最初は外出していたので
お父さんが紅茶を淹れ、ティーケーキを用意してくれた
商品を見せてもらいながら、世界情勢や物価やストのこと、
最近の仕事に今回の旅程のことまで、話は尽きない

それで、いつ着いたの、と訊くので
今朝だよ、6時半、と答えると
壁掛け時計を振り返ったあと何か言いたげな顔で神妙に
元気そうには見えるけど、とだけ言うのでつい笑ってしまった
本当に、口を出すのはよくないと思っているお父さんみたいだな


そうこうしているうちにお母さんも帰ってきて、ワイワイ
いそいそと出してくれた商品の詰まった箱を見たお父さんが
それは僕も本当に知らない箱だ、VIPだね、と言って笑う
光栄だと恭しくお辞儀をして見せながら、
たとえ自分が特別なお客でもそうでなくても
この場所での3人での時間がわたしは心の底から大切なのだ、と
あらためて、思った


お父さんは、コロナで失くした人たちのことや、
当時辛かったことについても、はじめて話してくれた
だからきみにこうしてまた会えて嬉しいんだよ、
それより嬉しいことはないくらい、と何度も言うので
涙が込み上げて、返事ができなくなってしまった

9月に来るときは絶対に飛行機を予約する前に連絡してね、
ちょうど休暇で会えなかったら大変なことだから、と念を押してくれたけれど
ふたりにとっても、わたしとの時間が
特別やさしいものであればいいなと思う

どこへ向かうのかわからない世界に生きていても
きっとまた、秋に会いましょう
また、元気で

 

新しく借りた、小さな事務所の鍵を受け取り
茶店でホットケーキを食べて
自分の店を開ける時間まで、桜並木を歩く

6年目も終盤にして、ちょっとした変化
大学を卒業するともう“門出”はないと思っていたけれど
こういうささやかな船出は、わたしにもある


店の鍵を受け取った、6年前の日も
すがすがしい晴れだったことを、覚えている

思わず、それからの日々を振り返ろうとして
いやいや、そんなに単純なことじゃないでしょう、と
かき消し、ただ青空に揺れる枝垂れ桜を見上げた

 

さて、それはそれとして、
週明けには出張へ行かなくてはいけない
色々どうしようもなかったというのはそうなんだけれど、
このスケジュールを決めた昨年末のわたしは、なかなか鬼畜だ

なんとか今週の営業は終えたものの
店の締め作業、店の片付け、自宅の片付け、そしてパッキング
その全部が途中なので、どうしよう、というか
見通しすら立たず、実感がまったく湧いてこない

だけど、まあ、留学時代からつねにこんな感じでも
終わらなかったことは、いちおう一度もない
無理をすればぎりぎりなんとかなるという予定を組むことにかけては
悲しいかな、わたしはとにかく天才的なのだった


とにかく、なるべく頭のなかをシンプルに
行ってからの予定は、だいたい整っているから
準備を終わらせて、そして、行く

いまのわたしに必要なのは、
必要でないことをいったん忘れる余裕だ

 

『MONKEY』の最新号に
レイモンド・チャンドラーの説く秘書の心得』という
チャンドラーがかつて秘書のフアニータ・メシックに向けて書いた、
要望というか、いわば注意書きのようなものが載っていた

訳者の村上春樹も、そこに書いていたように
わたしも秘書の方にちょっと同情してしまうのだけれど、笑
それでも、チャンドラーのあたたかいまなざしと
仕事への真摯な姿勢が感じられる文章だったし
わたし自身が普段考えていることにも、近かった

 


エマーソンがどこかで言っていました。「それがどんなことであれ、人が何かを適当にごまかし通すことなんてできない。適当にごまかし通すことができなかったと当人に指摘するには上品すぎる人たちがいるだけだ」と。


出張中も、もちろん、いつだって
この言葉を胸に、
わたしなりの仕事をしようと思うよ

 

静謐な佇まいに惹かれて手に取った
ハン・ジョンウォン『詩と散策』

驚き、という表現が正しいかはわからないけれど
この本に出会って三日、
消化しきれない感情が、ふつふつと湧いてくる
本当に心を揺さぶられるものと出会うと、
狼狽えてしまって、説明ができなくなるのだね

瞬間を、変化していく自分の一片を
詩人たちとともに鋭くとらえていく
その静かな言葉たちの、なんと美しいことよ


著者の表現に自分を重ねるなんて、
不躾で、厚かましいことだとわかってはいるけれど
わたしは、こんな風にありたいのだ、と思う

記憶を携えて、幻想に守られて、現実と向き合って
日々の些細な波を、反射する光と生まれる影を、
暗い海から聞こえてくる波音を
ひっそりと、正確に、言葉にしたい
誰にも届かないとしても

そして、自分の言葉の限界、想像力の限界に立ち向かうために
わたしには、他者の力を借りて自分のそとをすこし見られる、
こういう本が必要なのだった

“真実に目を背けず向き合うためにも、
自分だけの想像を秘めておいたほうがいい”
そう囁いてくれる人が、必要

 

違う人に違う人に違う人になっていくあいだ、私はただ存在する。
散歩を愛し、散歩の途中で息を引きとったローベルト・ヴァルザーもこう言っている。

わたしはもはやわたし自身ではなく、ほかの人間であり、そしてまさにそれゆえにいっそう、わたし自身なのでした。
ローベルト・ヴァルザー「散歩」(『ローベルト・ヴァルザー作品集4 散文小品集1』)


ハン・ジョンウォン「散策が詩になるとき」より

 

きょうは、仕事の打ち合わせがあって
ちょうどさまざまなことを考えていた

わたしはわたし以外の人から、いったいどう見えているのだろう
好きなことを軸に生活をしている、
あるいは思うままに生きているというふうに見えるとしたら、
それはいったい、どうしてなのか
誰かが投影したいわたし、誰かが聞きたい言葉は、どういうものなのか

どの部分をどんな風に言葉にすれば、
わたしを貫くものの機微を、重ねた時間の陰影を、
多少なりとも表現することができるのか

他者にも自分自身にも正直であることと、自分について話すことを
なぜ両立しようなどと思うのか
そんなことをしても、いちいち傷ついたりして終わるだけじゃないのか

誰かの解釈、想像のなかにあるわたしは、
そもそも、わたしなのか

 

諦めないということは、むずかしい
だけど、ときには誰かの言葉の力を借りて、
絶えず変化しながら、諦めずに考えていたいと思っている
答えが出ることはなくても

ハン・ジョンウォンのエッセイでわたしが触れたのは、
なにより、考えることを諦めない、
透き通るように純粋な意志なのかもしれなかった